23歳の山下氏は初めて行った西ドイツで、一人の日本人カー・デザイナーと出会った。 BMWの名車Z1を手がけた畑山一郎氏。その出会いが、山下氏の人生を大きく変えることになる。
人は初めて訪れた国に惹かれ、やがてそこへ戻って行く--。どこで聞いた格言かことわざかは忘れたが、いま自分がここドイツで仕事に就き、生活していることを考えれば、あながち外れてはいないようだ。
私が人生で初めて訪れた外国は統一される前の西ドイツ、1984年、弱冠23歳の時だった。高校卒業後、立体のデザインをしてみたいと思ってデザイン学校に入学。そこを卒業した後、就職した会社の海外研修という名目でハノーバー・メッセという当時のドイツで一番大きな見本市に参加する機会を得た。
初めてパスポートを取得し(今のそれより1.5倍くらい大きかった)、巨大なスーツケースを借りて向かった成田国際空港。乗り込んだ飛行機の座席は数多くの外国人で埋まっており、まだ離陸もしない内から、すでに海外の一都市にいるような錯覚を覚えたものである。選んだ喫煙席に座り(そう、まだあの頃は機内でタバコが吸えたのだ!)、2ドルでヘッドフォンを買って(なんと有料!)、いざ離陸。
あの頃の欧州行きの飛行機はまだロシア上空を飛べなくてアメリカのアンカレッジを経由し、今よりずっと飛行時間が長かった。アンカレッジまで約7時間。燃料補給の間に降りたアンカレッジ空港は、夜中だというのにお土産物屋やレストランが営業しており、多くの旅行者を 飲み込んでいた。ボーッと空港内を歩いていると片隅にシロクマの大きな剥製が置いてあったのを思い出す。再び飛行機に乗り込み眠気も疲れも最高潮に達した頃、目的地のハンブルク空港に到着した。
初めて見るドイツの街並みは赤いとんがり屋根の家々が整然と並んで、とても可愛らしく見えた。駐車場に停められていた日本では見慣れたホンダ・プレリュードも、まるで「私、生まれは欧米ですのよ、オホホホホ」とでも言い出しそうなくらいモダンな佇まいを見せていた。
カー・デザイナーという職業があるのを知ったのは、『カー・スタイリング』という雑誌を購入するようになってからである。三栄書房が出していたクルマのスタイリングやプロダクト・デザインを扱ったいわゆるデザイン専門誌だ。最初に購入したのは忘れもしない第36号。表紙にはデローリアンとマツダ・コスモの写真。記事としても表紙の写真を反映したジウジアーロによるデローリアン開発秘話と、マツダ・デザインによるコスモ開発物語がたくさんのスケッチと共に掲載されていた。その雑誌購入をきっかけに、カー・デザイナーへの憧れが芽生えた。
普段は見ることのない外国車の数々。初めて見るショー・カー、コンセプト・カーたち。そして何よりもそこに掲載されている多くのスケッチに圧倒された。今まで見たことのないよう な様々な色、画材、テクニックを用いて描かれたクルマたち。新しい号が出るたびに食い入るようにその記事やドローイングを眺めたものだ。
そんな中、ある号に一つの記事を見つけた。それは日本人によるアートセンター・トランスポテーション科、インディ500ペースカー・デ ザイン・プロジェクトの体験記であった。アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン。ロスアンジェルス北部のローズボウルで有名なパサディナにある芸術大学の名門である。トランスポテーション科をはじめ、グラフィック、写真、フィルム等、さまざまな学科がある総合芸術大学だ。
世界中の自動車会社で、ここを卒業した沢山の学生たちがデザイナーとして働いている。その記事を書いたのが現在日本で未来技術研究所、並びに複数の会社を経営しておられる畑山一郎さんだった。畑山さんは日本の大学を卒業後、いったん就職。その後アートセンターに再入学し、卒業後ドイツ・フォード、BMWにデザイナーとして就職された。BMWの隠れた名車、Z1をデザインした人物だといえば、ヘエと思うクルマ好きもいることだろう。
実は初めての海外旅行に先だって、その頃、ケルンに住んでいた畑山さんと手紙でコンタクトを取っていた。何となくカー・デザインに興味を持ち、これはいろいろな話をうかがういい機会だと思い、僭越ながらお会いしたい云々と手紙を送ったところ、快諾していただけたのだ。
ハノーバー・メッセ見学を終え、初めて乗ったドイツ鉄道に感動しつつ降り立ったケルン中央駅には、恐縮にもお迎えに来て下さった畑山さんの姿があった。その後、泊めていただいたご 自宅、初めて走った速度無制限のアウトバーン、連れて行っていただいた小さな村でのピアノ・コンサート等の経験は私の脳裏に深く刻み込まれ、自分のその後を考える上で大きな影響を及ぼすことになった。
しかし、なんといっても一番の衝撃は、飛行機で十何時間も離れたこの外国の地で、日本人がたった一人でデザイナーとして活躍しているその事実であった。遠い異国の地に住み、家族を守り、英語のみならずドイツ語を操って様々な人種の外国人デザイナーと対等にやり合い仕事をこなすというその日常が、日本しか知らず日本語しかできない私にとって眼から鱗が何枚も落ちる程大きなインパクトを与えたのだ。
初の海外旅行から帰って来てしばらくして、畑山さんも日本での会社設立準備等のために時々帰国されるようになった。その度に、まったく関係のない私ではあったが、何かと理由を付けて会合の場に顔を出した。
畑山さんは私の憧れの人となった。彼のようになりたい。世界で活躍できるデザイナーになりたい。自分の中に、段々となんとも言えないモヤモヤしたものが立ち込めてくる。今の自分の仕事って、本当にやりたいものなのか? 本当にこのままここにいて良いのか? もうチャンスは無いのか? このまま一生終わって良いのか? なぜ畑山さんとこんなに違うのだろう? 同じデザイナーを名乗るものとして、この違いはなんなんだろう? いったん噴き上げて来た疑問、モヤモヤの数々が日に日に強くなっていくのがわかる。いくら自分をごまかして今の自分はとても幸せだと感じるようにしても、気持ちの何処かに今の自分に満足していない自分がいた。
だが、すぐにそんな気持ちを打ち消すように、いやいやあんな風になれるわけがない。才能なんかあるわけない。だいたい年齢的に無理だ。今さら英語の勉強をして大学に行き直すなんて土台無理である。第一先立つものがないし。何処から手を付けていけばいいかわからないし。自問自答と言い訳の毎日である。
畑山さんとは、その後も何度か会う機会を得た。私のモヤモヤした気持ちを知ってか知らずか、会う度に「山下くん、車のデザインしたくないの?」とか、「山下くん、アメリカ行かないの?」、「山下くん、アートセンター興味ないの?」といった、いいえとは言いにくい質問を投げかけられて、私の気持ちはさらに悶々とするばかりであった。
ある日、畑山さんに、「折り入ってお話があるので、お時間作っていただけますか」とお願いした。大磯のご自宅まで押し掛け、夜通しいろいろな話をし、相談に乗っていただいた。私が、そうしたいのは山々ですがこれこれの問題があってなどと逃げ口上を述べると、すかさずなんらかの解決方法を提示され、私の問題は結局のところ、自分で決心することができないというすこぶるシンプルな悩みであったことに気付かされる。そして最後に畑山さんにとうとう、「山下くん、君はアメリカに行くべきだ」と直言され、そのままいったん寝て、朝を迎えた。
私の心は決まっていた。そしてコーヒーを準備してくれていた畑山さんに、「アメリカに行って、アートセンターを目指します」と告げた。1988年5月のことだった。窓から見える朝の景色は、昨日とは少しだけ違って見えた。
文とスケッチ=山下周一(ポルシェA.G.デザイナー)
(ENGINE2019年6月号)
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