ミステリーやホラーを中心に、幅広いジャンルの作品をつくり続けてきた黒沢清監督。ヴェネツィア映画祭での快挙を成し遂げた新作『スパイの妻』に見る"世界のクロサワ"の個性とは?
9月に開催された第77回ヴェネツィア国際映画祭において『スパイの妻』が銀獅子賞(監督賞)を受賞した。監督の黒沢清は、2008年の『トウキョウソナタ』がカンヌ国際映画祭「ある視点」部門の審査員賞を受賞するなど国際的に注目されてきたが、三大映画祭(カンヌ、ヴェネツィア、ベルリン)主要部門での受賞はこれがはじめての快挙だ。1950年代に日本映画が世界から注目されるきっかけを作った黒澤明と苗字が同じことから「2人目のクロサワ」と呼ばれた彼が、本当の意味で世界映画史に大きな足跡を残したと言える。
2人のクロサワは、しかし映画作家としてその個性もスタイルも大きく異なっている。日本映画黄金期に大映画会社のエースとして堂々とした風格と実力を見せたアキラに対し、キヨシはもともと大学の自主映画サークル出身であり、エンターテインメント性よりも個性的な作風や一貫した主題、鋭敏な映画的感性によって見出され評価されてきたアートハウス系映画作家である。そのため国内でも海外でも一部映画評論家からの熱狂的賛辞が先行してきた。だが黒沢清のスタイルはそもそもハリウッドの娯楽作品やホラーなどジャンル映画から多大な影響を受け独自に進化させたものであり、マニアだけに向けられたものではない。商業映画の娯楽性とアート映画の才気が高い次元で見事に融合した作品が『スパイの妻』であるのだ。
『スパイの妻』は太平洋戦争前夜から戦後に至る日本を舞台とした歴史物だ。貿易会社を営む福原優作(高橋一生)は旅先の満洲で日本軍の残虐行為を目の当たりにする。国家よりも人間に対する愛情と正義感から、彼はその事実を世に知らしめようと考えた。
一方、妻の聡子(蒼井優)もまた、時代の荒波の中、夫を信じることを通じて孤独な戦いに身を投じる決意をする。動乱の時代のダイナミズムを描きつつ、国家や党派ではなく、あくまで個人の決断とその勇気ある行動に視点を置いた物語は、やはり黒沢清独自のものだと言えるだろう。 また、自らの命を賭け大義を貫く正義漢でありながら、同時にどこか飄々とした優作の佇まいや、軽やかで楽しい駆け引きが前面に出る聡子との夫婦の騙しあいからも、一見優柔不断に見えながら、実は周囲に流されずしなやかに信念を貫く強さを備えた個人を擁護してきた黒沢清の一貫したこだわりが感じられる。
優作と共にスパイ映画を個人製作して楽しんでいた聡子は、夫への愛情に加え、満洲での事実をありのままに映した記録フィルムに衝撃を受けたことで、自らの人生を左右する大きな決断を下す。ここからは、映画が娯楽の王者であった時代、すなわち人々が映画を楽しみ、感銘を受け、そして映画が人々の生き方を変容させもした時代への真っ直ぐなオマージュが感じられるだろう。映画の美しさ、楽しさ、怖さ、残酷さが人々の心を打ち、静かな炎を灯し続けること。黒沢清が信じるのは、そうしたことなのかも知れない。
『スパイの妻〈劇場版〉』は新宿ピカデリーほか全国上映中 ©2020 NHK, NEP, Incline, C&I
文=大寺眞輔(映画批評家)
(ENGINE2020年12月号)
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