2020.11.03

CARS

カー・デザイナー内田盾男さんの人生を変えたクルマはブガッティ・タイプ35

僕の人生はクルマと、クルマに乗った人々に彩られているというカー・デザイナーの内田盾男さん。人生を変えた1台を選ぶには、経験が豊富過ぎるのだろう。


イタリアのトリノで40日間以上もクルマに乗らない日々が続いています。EVがポリティカリー・コレクトになり始めて、ガソリン車で排気音をたてて走るなんていつまで続くのだろうと思い始めた矢先の出来事。これからは電気モーターだ、いや、やっぱり内燃機関だなどと言っていられない事態に遭遇して驚きました。ステアリングを握る代わりに、コレクションのミニカーの埃を払ったり眺めたり、買い集めた自動車本のページをめくったりする毎日のなかで、これまで乗ったクルマたちのことも思い出しています。どれも僕にとっては印象的なものばかり、甲乙つけがたい自動車たちです。


きっかけはブガッティ

祖父はガチガチの明治男、でもクルマ好きでした。赤いスポーツカーを買ったり当時としては相当早かったと思います。「これが最後のクルマだよ」とニッコリ笑った顔を今でも覚えています。救急車に載せられるきわの出来事でした。


母もクルマ好き。自家用車ばかりではつまらなかったのか、旅客用大型バスの運転免許まで持っていました。自動車会社に勤務した父もエンスージアスト。独身時代はスーパー・セブンに乗って母を迎えに行ったそうです。ある年の結婚記念日に父は「はい、プレゼント」と言ってクルマのキーを渡したんです。何事かと思って外に出たらピカピカのジャガーMK2が駐まっていました。ウチにはルノー4があったんですが、このクルマで両親は第1回日本アルペン・ラリーに参戦しました。


こんな環境で育ちましたから、息子の僕がクルマ好きにならないわけがない。でも最初はバイクから入ったんです。壊れた三菱のピジョンというスクーターを物置に見つけて直して乗ろうとバラしたはいいけど、部品の山に埋もれて途方に暮れたことがあります。


4輪好きになるきっかけはブガッティ・タイプ35Aです。写真を見てストーリーを読んで惚れ込みました。寝ても覚めてもブガッティのことしか頭にない時期がありました。フランスの小説に熱中して次第にフランス車好きになるわけですが、「最高の二流品」という表現がぴったりのシトロエンにはどうも興味がわかなくて、ギンギン系が好きでした。ルノー8ゴルディーニ、アルピーヌA110(初代)、ルノー・サンク・ターボなんかですね。


忘れられないのはまだ学生時代、アルピーヌの故郷、デュエップを訪問したときのことです。モンテカルロ・ラリーに参戦したA110に乗りました。ドアにゼッケンが貼られた車両を最初はテスト・ドライバーが運転したのですが、ラッキーなことに途中で選手交代。シートは固定式、やっとクラッチに足が届くくらいのアルピーヌの運転席に勇んで乗り込んで180km/hくらい出しました。でもギアに悲鳴を上げさせたのがいけなかったのでしょうか、3度目にガリガリッとやったところでドライバーに「はい、そこまで」と言われてしまいました。


1960年代後半、カー・デザイナー、ジョヴァンニ・ミケロッティ氏の誘いでトリノに移り住んでからだったと思いますが、ゴルディーニのステアリングを握った時のことも忘れ難い。雨の日の出来事。長い下り坂で派手にスピンしたんです。その時は対向車やトラックが避ける姿を横目で見ながら、ブレーキングしちゃダメだぞって我が身に言い聞かせて、アクセルと逆ハンで切り抜けました。いわゆるドラテクに魅了されたのはこの出来事から。ジュリアTIでアルプス街道を突っ走ったものです。唸るツインカム4気筒アルミ製エンジン、「クォーシュォー」と息を吸い込むウェーバー・キャブレター、ピリピリと手に振動が伝わってくるZF製の長いシフトレバー、どれもはっきりと記憶の底に染み付いています。


すべてイタリアから

ブガッティ少年ではありましたが、実はイタリア車も大好き。クルマのみならずいわゆるイタリアン全般から入った感じです。日本にいた時代からベスパ、オリベッティ、ルネッサンスの芸術家、オペラ、ヴィットリオ・ガスマンの『追い越し野郎』はじめ映画やそこに出てくる女優たち、カンツォーネ、食、あらゆるものに惹かれました。自動車について言えば今も昔もアルファ・ロメオのジュリエッタ・スプリントやアバルト・ビアルベロのような小型車のファンです。自動車図鑑や本国から取り寄せたイタリアの自動車雑誌で写真を眺めながら、イタ車というのはボディ板が薄く見えて実にかっこいい。ショックを受けました。それに引き換え(ポルシェ以外の)ドイツ車は偉そうな上にヘビー、いまだどうにも好きになれません。


デザインでいえば衝撃を受けたのは、ベルトーネ時代のフランコ・スカリオーネが手掛けたジュリエッタ・スプリント。これだけでオーっ!と驚いたのに、更に低く薄く軽いジュリエッタS.Z.が登場した時は衝撃をアップデートした感じです。スポーツカーの見本。生き物のように丸くバランスがよく、グッドセンス。続くT Z もT Z 2も同様です。ただただザガート様さま、そんな気持ちになりました。ジュリアにGTが出た時は中身は同じなのにここまでデザインを変えることができることに感動しました。ちなみにこのGTをデザインしたジウジアーロを「ジュジャロー」と発音すると知ったのは、トリノに渡ってから。本場の発音に驚いた記憶があります。


ステュディオ・テクニコ・G・ミケロッティで働くようになってからは実に多くの人々と知り合いました。いずれも自動車史に名を刻む人々。彼らとの思い出も自動車とダイレクトに結びついています。ミケロッティさんの当時の足はBMW1500。その後、トライアンフ2000。ショー・カーの“フラーレス”も好きだったようです。


同僚にはのちにピニンファリーナに移り、テスタロッサはじめ多くのクルマをデザインしたディエゴ・オッティーナがいましたが、彼はミケロッティ・デザインのBMW700に。同じくピニンファリーナに移りモデューロを手掛けたパオロ・マルティンはバイク好きでランブレッタとBMWを足にしていました。現行アルピーヌやアストン・マーチンのホワイト・ボディ生産を行う会社をおこしたジョバンニ・フォルネリスは当時はモデラー、愛車はヌオーヴァ・チンクエチェントでした。彼らを想うと即座にクルマが浮かんできます。そういえばこの時代に、アルファ・ロメオの6気筒エンジン、コモンレール・システムを開発した名エンジニア、サンドロ・ピッコーネとも知り合いました。今でもマシンガン・トークが楽しいクルマ仲間です。


スーパーカーもなくならない

僕自身がイタリアで最初に購入したのはアルファ・ロメオ・ジュリエッタ・セダンながら、マイカーとして印象に残っているのはジュリア1750GTです。相当頑張って手に入れただけに嬉しくて嬉しくて仕事が終わると毎晩のようにアルプス渓谷に走りに行ってました。あのクルマはエンジン音が「ホワーン」って聞こえる。あれがよかったなぁ。いたって丈夫、どんな道でも走るGTを過信して、夏のスキー場のゲレンデをそれこそ滑り落ちるかの如く走ったこともあります。あの時はさすがにガソリンタンクとオイルパンを壊してしまった。これも今となっては思い出です。


勤務先には入れ替わり立ち替わり様々なクルマが運ばれましたから、それこそフェラーリ、ロールスロイスからフィアット・パンダ、リトモ、ミニカまで、BMWやメルセデスにも随分乗りました。なかで僕を魅了したのはやっぱり1960/70年代のイタリアの小型、中型車です。無駄のない使いやすさ、人の暮らしに寄り添う経済観念、長年付き合える美観、全てにわたってバランスが取れている。そして爽やかに人を楽しませ、夢を与えます。こういう自動車たちをデザインしたのは(まだデザイナーという名称はなく、スティリスタと呼ばれていました)、リッチではなく、普通の暮らしのなかで夢を持つ情熱的な人々でした。


1980年代に入ってバブル現象が起きたことで、デザインにアイキャッチが求められるようになり、デザインが変化しました。でもこれは否定的なことではない。ランチア・インテグラーレやフェラーリF40の出現を例に取るまでもなく、エモーショナルへの発展も変化というデザイン史の1ページです。


僕はこういう変化と現在の状況にどこか似ているものを感じます。コロナ・ウィルスがもたらした人類の災難は、人々の考え方やライフスタイルを変えるでしょう。新しい技術と時代のテイストをベースにして新たに「ニュー機能主義」的なデザインを生み出すと思っています。利点というと大いに語弊があるものの、コロナ禍は、接触することなしに電波を使って会議をする、買い物をする、コンサートや集会を開く、こうやって世界を繋げることに加速をつけるのではないでしょうか。MaaSが浸透して自動運転が本格化する頃には、急用も大事な用件も電波(AI/IT)にのせて進め、クルマはフリーの時間やレジャーに出かけるときに使うものになるのではないかとイメージします。そうするとスペースがあってのんびりドライブできる、日本の得意な箱型クルマがますます進化するはずですが、だったら最高速度300km/hのスーパーカーは消滅するのかと言えば、そういうことではないと僕は思っています。エレクトロニクスの楽器が発達すればするほど、ストラディバリウスに価値が見出されるのと同じ。1本のベクトルが伸びれば、必ず対極をなすベクトルが生まれる。1本が長ければ、もう1本は短くても太いんです。自分でステアリングを駆ることを愛するクルマ好きはいなくならないと思いますね。


「人生のクルマのクルマ」というテーマで語るには僕には衝撃を受けたクルマがあり過ぎる。自分で話していてそう思いました。思い出深いクルマを並べると自分史のようになってしまう。でもそれはおそらく自分の人生そのものなんだと思います。僕の人生はクルマと、クルマに乗った人々に彩られていて、それは自分にとって幸福なことであることを、自動車に乗れない暮らしに改めて気づかされました。


大学生時代にカー・デザイナーのジョヴァンニ・ミケロッティ氏に誘われた内田盾男さんは20年以上に亘り、ミケロッティ社においてカー・デザイナーとして手腕を振った。

語る人=内田盾男 まとめ=松本 葉


(ENGINE2020年7・8月合併号)

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