アナウンサーの上柳昌彦さんと憧れのダッジ・チャレンジャー。
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間違いだらけのクルマ選び上柳さんがクルマの免許を取ったのは19歳のとき。ニッポン放送に入社して最初に買ったのは中古のトヨタ・コルサだった。「徳大寺有恒さんの『間違いだらけのクルマ選び』を読んだら、最も評価の高かったのはVWゴルフだった。僕は中学2年のときから東京モーターショーはほぼ皆勤賞なんですけど、もっと速くて立派なクルマが選ばれるんだと思っていたんです。え? ゴルフ? そういう考え方もあるんだと感心しました。で、ゴルフは高くて買えないからハッチバックのコルサを買ったんです。次も“陸サーファー”と揶揄されたハッチバック、マツダ・ファミリアです。ファミリアの次は日産ブルーバード・アテーサ。これは父と一緒に観た映画『栄光への5000キロ』で活躍したブルーバード510を思い出して、ちょっと嬉しかったです」ブルーバードからBMW320iへ。初めての外車だった。
「子供の頃、クルマは憧れのキラキラした存在でした。中学の頃は父のカメラを借りて街に停まっている外車を勝手に撮影してました。メカニカルなものが好きでしたね。エンジニアの創意工夫が結集した美しさに憧れて、大きくなったらクルマを設計したりデザインしたりしようと思っていました。マツダのロータリー・エンジンのプラモデルを作ったりしたなあ。そんな憧れもあってBMWを手に入れました。僕にとってのプチ・バブルだったのかも」エンジニアへの夢は理数系がまったくダメだということがわかるにつけ、消えていったのだという。BMW320iは子供が出来たという理由でホンダ・オデッセイへ。
「モーターショーに行き、次はこれにしようと決めた最後のクルマがオデッセイです」子供が大きくなると一緒にクルマで出掛ける機会が減り、仕事でクルマを使うこともないので、いまはクルマのない生活を続けている。一方、早朝に働くドライバーへ声を届ける仕事はずっと続いている。
「朝4時半から6時という異常に早い時間に番組を聴いている人には、いろいろな事情があります。介護で早く起きた方とか、トラック・ドライバーの方とか。そんな人たちに“起きているのは、私だけじゃない”と思ってもらえるような気持ちで届けています」もちろん、ラジオを聴くドライバーからもメールが届く。「以前、レギュラー番組で悲しいストーリーのシャンソン曲をかけ続けたら“泣いて運転できないから勘弁してくれ”というドライバーからの訴えがありました」ラジオは物事を広く浅く伝えるようで、ひとりひとりの心に深く刺さるときもあるのだ。
「阪神淡路大震災のときに、箪笥に挟まって動けなくなった人が、もう死んでもいいやと諦めたそうなんです。そのとき、お姉さんの“あんた、何やってんの!”という声で我に返り、生きなきゃと思い直したそうなんです。肉声って大事だなと、つくづく感じたエピソードでした。2023年ジャパンモビリティショーでは、近未来のカーラジオという提案が行われていました。さまざまな提案が発表されましたが、僕は最終的には人の声の温かさとか、同じ時間を共有する連帯感がラジオの存在理由であって欲しいと思います」学生時代「自分は根なし草だ」と言った彼が、ラジオの世界でリスナーと同じ時間を共有する連帯感という根を持てたのならば、友人としてこんなに嬉しいことはない。文=荒井寿彦(本誌) 写真=筒井義昭 スタイリング=Kim-Chang 車両協力=木ノ本尚道
■上柳昌彦(うえやなぎ・まさひこ)1957年大阪生まれ。立教大学卒業後、ニッポン放送に入社。同局のアナウンサーとして2017年の定年まで勤め上げた。「オールナイトニッポン」、「上柳昌彦の花の係長 ヨッ! お疲れさん」、「うえやなぎまさひこのサプライズ!」、「テリーとうえちゃんのってけラジオ」などなど数多くの番組でパーソナリティを務めた。現在も「上柳昌彦 あさぼらけ」、「笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ」などで軽妙なトークを展開する一方、イベントの司会などでも活躍する。11月30日、「上柳昌彦 あさぼらけ」の番組本、『居場所は“心(ここ)にある”』(扶桑社)を上梓した。第41回&第46回ギャラクシー賞、第51回&第55回&第57回日本民間放送連盟賞、第26回国際パフォーマンス学会 ベストパフォーマー賞などを受賞。(ENGINE2024年2・3月号)
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