2025.06.08

LIFESTYLE

生誕140年、破格の日本画家・川端龍子の異次元の美意識がつまった自邸とアトリエが都内で見られる


アメリカ軍に爆撃された自邸すら作品にしてしまった

一方自邸は、終戦の2日前にアメリカ軍の爆撃で大破してしまう。その時の模様は、《爆弾散華》(1945)と名付けられた、高さが2.5mの作品になる。使用人が命を失い家は焼けてしまったが、描かれたのは畑の野菜が飛び散った様子。金箔が爆弾の破裂する瞬間を効果的に表している、龍子の代表作のひとつだ。

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《爆弾散華》 1945年、大田区立龍子記念館蔵) 龍子の代表作。自宅に落ちた爆弾で、家は焼け使用人2人が亡くなったが、そうした悲惨な戦争体験を、カボチャやナスの花が舞っている姿で表した。きらめく金箔は、爆弾の閃光。
《爆弾散華》 1945年、大田区立龍子記念館蔵

爆撃でできた窪地は、水が湧いて池になったのでそのままにし、すぐ横に龍子の設計で新たに家が建てられる。食べるにも苦労していた1948年から1951年にかけてこれだけの家を建てたのだから、いかに豊かだったかが分かるだろう。ちなみにこの爆撃でも、アトリエは無傷だった。  

自邸は美意識と生きざまそのもの

延べ床面積 159平方メートルの新しい自邸は、竹が多く使われた独特のスタイルの日本家屋だ。妻や三人の子供に先立たれていたので、自身と身の回りの世話をする三女が暮らすには、これで十分な広さだったのだろう。来客が訪れることのある部屋は南の庭を、家族が使う部屋は北の庭に面した間取りで、2階の龍子の寝室からはどちらの庭も見える作りになっている。

爆弾で旧宅が焼失したため、1948年に新たに建てられた川端龍子邸。左側が自邸で、右手にアトリエに通じる中門が見える。奥に見える巨木も、敷地内のもの。戦後間もない時期にこれだけの自邸を建てることができるほど、龍氏は売れっ子だった。 

自邸2階の、龍子の寝室から見た南側の庭。窓枠は、装飾など何も存在しないクリーンな造形。木々の向こうに、龍子記念館の擬宝珠が見える。

建物の一番奥に、持仏堂があったのも興味深い。かつてここには、三体の由緒ある仏像(一体は重要文化財)が収められていた。しかも、それに続く十八畳の和室とお堂を仕切る襖は、俵屋宗達が描いたとされる《桜芥子図襖》(1640年ごろ)。和室には照明がなく、龍子はこれらの作品を自然光か蝋燭の灯で眺めていた。そうすることで、「仕事のモチベーションを高めていたのではないか」と、木村副館長は推測している。 

1954年に増築された広間。襖は、俵屋宗達が描いたといわれる《桜芥子図》。襖の奥に持仏堂があり、三体の仏像が納められていた。現在この部屋にある襖は、東京藝術大学が作成したクローン文化財。

自宅に重要文化財があり、400年前の琳派の名作が使われているのだから、まったくもって川端龍子はただ者ではない。存命時は、アトリエや自邸を画商や顧客が頻繁に訪れたというが、建物を見せることで、龍子の美意識や生きざまをより深く理解させていたのだろう。いくつもの言葉を重ねるよりも、この建物には強い説得力がある。多くの粋人をうならせた川端龍子のアトリエと自邸が残る龍子公園。是非訪れてみて欲しい。

中門からアトリエに続く露地。埋め込まれた丸い石は、手前に行くに従って小さくなっている。途中にに蹲(つくばい)が設けてある。

文・写真=ジョー スズキ(デザイン・プロデューサー)

■大田区立龍子記念館にて、名作展「川端龍子の描き出した世界 生誕140年を迎えて」は2025年6月22日(日)まで開催中。
詳細はホームページまで https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi

南馬込の住宅街に突如現れる、お寺のような外観の龍子記念館。この建物の設計も龍子。

(ENGINE Webオリジナル)

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