梅雨の中休みか、東京は久しぶりに青空に覆われ、レンガ色の駅舎がひときわ綺麗に見える。ウォォォ~ンという乾いた音とともに、黒いポルシェ・ボクスターが現れた。丸の内のビル群に黒のボクスターはよく似合う。ドライバーが女性なのでなおさらカッコイイ。ステアリングを握るのは、本誌でもお馴染みのジャーナリスト、飯田裕子さんだ。
2015年に程度のいい356Bを発見、レーシング・ドライバーの弟、飯田 章さんにも試乗してもらい、買う寸前までいったのだという。「SCではなくBだったこと、それから黒ボディに黒内装というのも、踏みとどまる原因でした。アイボリー、グレーといった可愛いボディ・カラーの356が欲しかったから」。
そんなとき、6気筒自然吸気のポルシェ・ボクスターに出会った。「シルバーのボディに、ヨッティング・ブルーという青いレザー内装、そして紺の幌という組み合わせでした。なんて素敵なカラー・コーディネートなんだろう!
眺めているだけでも幸福感に包まれました。しかもマニュアル・トランスミッション。仕事で乗ったときのボクスターのしなやかな脚、自然吸気エンジンのリニアな反応、そして乾いた排気音など、すべてを思い出し、これが欲しい! と思ったんです」。
「実用性の高いクルマが好きだったんですが、ボクスターはフロントの荷室が深くて、トロリー・バッグが入る。自分にとって必要最低限の実用性が確保されていました」。シルバーのボディにちょこんと紺の幌が乗ったボクスターは本当に美しかったと飯田さんは目を細める。飯田さんは「アタシのボク」と呼び、溺愛した。「ボクのノートを作り、給油、メインテナンスをはじめ、どこで何をしたという日記をつけるほどでした」。
そんな「アタシのボク」に事件が起きたのは2018年8月28日。東京を襲ったゲリラ豪雨により、地下駐車場に停めてあったボクスターが水没したのである。
「翌朝、水は駐車場へのスロープの半分ぐらいまで上がっていました。どうして、近隣のコイン・パーキングに移動しなかったのか。ボクちゃん、ごめんなさい」やっと水が引いて地下駐車場に入ると、飯田さんのボクスターは所定の場所から入り口の方へ流されていた。軽かったからだろうが、まるで苦しくてもがいたように見え、飯田さんは涙が止まらなかったという。
次のクルマを探そうという気持ちになるまでには3カ月ほどかかった。「ケイマン、あるいは911にしたら? という声もありました。でも、もともと356が好きで、ボクスターを愛した私はそこまでキレッキレじゃなくていいんです。幌を開けたボクスターで峠を走るときの、ちょっとユルイ感じが大好きなんです」。
ポルシェのディーラーが飯田さんのボクスターと同じ型の中古車を数台提案してくれた中から選んだのが、現在の愛車である。
「黒いボディ、赤い幌は自分では選ばないと思っていたのですが、内装は大好きなライトグレーでした。幌を開け、後ろに回りこんだら、畳まれた赤い幌が着物の半襟のように思えたんです。黒い着物に赤い半襟、その先にはライトグレーの内装。これならいいかな?と」。
それでも前のボクスターを思い出し、ルンルン気分というよりは、また買っちゃったけど、大丈夫かな? という気持ちが強かったという。
「もう一度乗って良かったなと思えるのは、あのエンジhttps://engineweb.jp/series/list/engine-porscheン・フィールが味わえることです。調子が良くて、前のボクスターよりよく回る。自然吸気エンジンって素晴らしい」マニュアル・シフトを駆使し、エンジンを気持ちよく回すたびに、前の悲しみが癒えていくのかもしれない。
同じ型のクルマを選んだことを、前のボクスターもきっと喜んでいると思いますよと言ったら「そうだと嬉しいなあ」と答え、大きな瞳を潤ませた。
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文=荒井寿彦(ENGINE編集部) 写真=望月浩彦
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