私たちが日常的に使う「腕時計」が誕生したのは、1世紀あまり前のことである。小型の時計を組み込んだ女性用の装身具としてのブレスレットウォッチや、懐中時計に革ベルトを装着して手首に巻けるように工夫したものは19世紀に少数ながら存在していたが、初めから腕に着ける実用的な道具として考案された「腕時計」となると、カルティエが1904年に創作した「サントス」の名で呼ばれるモデルが史上初というのが長らく通説になっている。
この「サントス」とはアルベルト・サントス=デュモンという人物のことを指す。彼はブラジルのコーヒー王の御曹司で、パリで”空飛ぶ機械”の設計と製作に熱中していた。自ら発明したエンジン付き飛行船を操縦してパリの空を自在に駆けたサントスは、空中散歩に飽き足らず、懸賞付き飛行レースに挑み、1901年にはパリ郊外の丘からエッフェル塔を往復する飛行で優勝を果たした。
飛行レースで重要なのは時間や速さだ。サントス=デュモンは、当時の紳士が常用する懐中時計を操縦中に取り出して時間を確認するのに不便を感じていた。そんな不満を訴えた相手が、サントス=デュモンの友人でパリ随一のジュエラー、カルティエの3代目当主ルイ・カルティエだ。1904年、彼はサントス=デュモンの願いを叶えるべく、当時としては斬新な新種の「腕時計」を創作し、友情の印として贈ったという。これが当時のカルティエ家に伝わる有名な「サントス」伝説だ。
オリジナルの腕時計がどのようなものであったのかは不明だ。1点ものという特別な品だけに、製作に関する資料をカルティエは残さなかったのかもしれない。ちなみに筆者はサントス=デュモンの生涯をたどる旅でパリとブラジルの各地を訪れたことがある。行く先々で伝説の腕時計について調べたものの、確かなことはわからず、サンパウロのパウリスタ博物館の保管庫に収められる多くの遺品の中にも件の腕時計や関連資料を発見できなかった。
しかし手掛かりが、実はカルティエの保存台帳に残る。1911年2月16日付の記録だ。カルティエ家に伝わる話によれば、ここに記載されているモデルがサントス=デュモンのために作られたものと同一という。また、サントスがヨーロッパでの航空機初飛行に成功した1906年に着けていた時計が「サントス」に関する最古の記録という説もある。
1911年に市販品として発表されたこの腕時計は、ケースはスクエアで四隅は丸く、その先に延びるラグにレザーストラップが固定され、ダイアルはクラシカルなローマ数字を採用する。ちなみにデッサン上のJaegerとは、時計製作者のエドモンド・ジャガーを指す。後にスイスのルクルトと組んで時計メーカーのジャガー・ルクルトを興した人物だ。
この台帳の記載からわかるのは、カルティエが考案した「腕時計」の原型が「角型」であったことだ。腕に着ける時計は、ケースと装着用のブレスレットやストラップが隙間なくつながっていることが必要だが、それには角型が最適だったことを示している。事実この「サントス」のように、20世紀に誕生した初期の腕時計のケースは大半が角型(トノーやレクタングラーなども含む)で、アールデコ期には角型腕時計が全盛期を迎える。丸型が主流になるのは、1930年代以降なのだ。
カルティエの「サントス」は、腕時計の先駆者であり、角型デザインの先駆者であっただけではない。もう一つ見逃せない革新的な点がある。それは、ビスを配したベゼルに象徴されるように、エレガントさとスポーティルックを併せ持つ、今で言えばラグジュアリー・スポーツウォッチに通じる洗練された趣味が備わっていたことだ。20世紀初頭においては、そもそもスポーティな腕時計などというものは、どこにも存在しないのだから、「サントス」の独創的なコンセプトがいかに時代に先行していたかがわかる。
カルティエがサントス=デュモンの許可を得て市販化に踏み切ったのも、そうした革新性に満ちた時計を求める顧客たちの要望に応えるためだったと思われる。富豪でパリ社交界の寵児、天才的な発明家にして飛行家の草分けというサントスが、ある時はスーツスタイルを彩る飛び切り洒落たアクセサリーとして、ある時は操縦桿を握る機上で計器として活用したこの腕時計の評判を聞きつけた顧客が、彼と同じものをカルティエに求めたのは想像に難くない。こうして広まった新種の「腕時計」=「サントス」は、カルティエのみならず、腕時計の歴史に残るアイコンの地位を確立するようになった。
誕生から1世紀以上もの時を刻んできた「サントス」は、昨年、「サントス ドゥ カルティエ」の名のもとに進化を遂げ、最新コレクションとして生まれ変わった。独特の角型ケースやビスを配したベゼル、ローマ数字のクラシカルなダイアル、カボションを配したリュウズなどオリジナル「サントス」を特徴づけるデザインのエレメントを現代のデザインに受け継ぎながら、従来のモデルよりも薄いケースや、ブレスレットに向かって流れるようにラインが連続するベゼルに新たな特徴が見られる。
このような新しいスタイリングに加えて、最新コレクションにはメタルブレスレットやレザー、ラバーのストラップがセットで付属し、ケースとの着脱が工具なしで簡単に行える「クィックスイッチ」機構が採用された。付け替え可能なこの新方式により、ファッションやシーン、あるいは気分に合わせて腕時計の表情を変えられるのは実に実用的だ。
サントス ドゥ カルティエは、自社製ムーブメントを搭載する自動巻き3針モデルで登場し、今年クロノグラフも加わったのだが、この新作も進化している。ケース9時位置のプッシャーで作動し、リュウズにリセット機能を組み込む斬新なクロノグラフなのだ。ケースの基本デザインを大切にした、これまたカルティエの秀逸な設計だ。オリジナル・モデルに最も近いデザインを採用する「サントスデュモン」も見逃せない新作。2針のシンプルなダイアルとエレガントな薄型ケースが1世紀の時を飛び越えて、世界初の「腕時計」が誕生したとされる20世紀初頭へと連れ戻してくれるかのようだ。
文=菅原 茂 /(最初の画像)写真=近藤正一 スタイリング=安部武弘
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