現在、FCAヘリテージ部門を率いる僕は根っからのクラシック・カー好き。免許を取って以来、何台かのクラシック・カーを購入した。ポルシェ914/911、フィアット131アバルト、レンジ・ローバー、サーブ900ターボ、さらっと思い出せるのはこのくらい。その時々の財政状態に見合ったものであることと、生産から10年程度経っていることを基準に乗ってみたいものを選んだ。前述の通り自分で運転するのは好きだが、一方で運転できなかった時代、つまり幼い頃はクルマに乗ることが苦痛だった。お父さんの運転するセダンに家族で乗って楽しそうに出かける自動車広告を見かけるたびに、懐疑的な気持ちになる。僕の場合、自分でステアリングを握った時間を至福の時とすれば、パッセンジャーシートで過ごした時間は正反対、悲惨なものだった。クルマ酔いに悩まされて苦痛を強いられた。あれは父の頻繁なブレーキングのせいばかりではなかろう。座る場所、シートの“格付け”、ポジションに致命的な欠陥があったのだと思う。ムルティプラを担当することになった僕は、このクルマに自分の原体験を反面教師として投影させてみようと考えた。コンセプトは「自動車がもたらす人生の幸福なひととき」である。ピープル・ムーヴァーは自分から手を挙げたプロジェクトではなかったが、自動車をデザインする作業は手がける車種にメリハリがあった方が刺激的だ。この機会に僕は家族向けのミニバンの理想を追求してみようと考えたというわけだ。
クルマの新しい価値を知ったエクステリア・デザインに注目が集まってしまったが、誤解を恐れずに言えば、ムルティプラにデザインはないのだ。ボリュームがフォルムを作り上げている。パッケージングや技術上の優先課題や必要性が、あのフォルムを自然に生み出したと言える。デザイナーとしてもっとも力を入れたのはシート配列。2つのフロント・シートの間に“センター”を設けた。割り込んだ程度のものではない。この中央席こそ指揮官のイメージ。左右のそれと共通だ。リアも含めどの席も扱いを平等にすることが願いだった。こうしたことでルノー・エスパスやポンティアック・トラン・スポーツのスタイリングと決定的なパッケージング上の違いが生まれた。2台は2席3列。僕が望んだのは3席2列だ。細く長くから、広く短くした。パーキングもしやすいはず。全長はフィアット・プント並みである。プロジェクトがスムーズに進んだのは自分でも驚きだった。時折「あのスタイリングがよく上層部に理解されましたね」と言われるが、実のところフィアット首脳陣はクルマの成り立ちを非常によく理解してくれた。当時の社長、カンタレッラはありがちなエクステリアにおさまりがちなミニバンではなく、デザイン上の差異化も大切にした。予定より2年早まり1996年のパリ・サロンに運ばれた。車名のムルティプラはフィアット元祖マルチバンの名前を継承した。
今ふり返ると、あれは自分に向いたプロジェクトだったと思う。ムルティプラが生産開始になった1998年に、初めての子供を授かった。家族がこういうクルマを必要とするステージに突入した時に自分が使いたいと思える自動車をデザインできたことは幸福だったと思う。僕の人生に強いインパクトをもたらしたのは、このタイミングが大きかったのかもしれない。告白すると僕はムルティプラを6台所有した。2000年に次男が生まれたこともあって私生活でフル活用したが、同時に仕事の足として同僚ともよく旅をした。趣味で弾くコントラバスを積んでセッションにも出かけた。それまで自動車では、歴史とかドライビングの楽しさとか、いわば孤の楽しみを味わってきたが、ムルティプラでは「車内に生まれる陽気さ」とか「他と過ごすよさ」を知った。正直に言えばリ・スタイリングは好きになれない。僕の手からムルティプラが離れて行ったと感じている。平凡でつまらなくなったと言う人がいる一方で、普通化したことをポジティブに受け止める人がいることも承知している。この“顔”のおかげで僕の世界は広がった。好奇心を掻き立てられた実に多くの人々との出会いがあって、それはニューヨークの近代美術館(MoMA)にまで広がった。販売台数でいえば、のちに手がけた現行“500”とは随分差があるのに、ムルティプラをきっかけに出会ったヒトの数は500とは比較にならないほど多い。この点でもムルティプラは僕の地平を開いた。▶「わが人生のクルマのクルマ」の記事をもっと見る文=ロベルト・ジョリート 翻訳=松本 葉
(ENGINE2020年7・8月合併号)
無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。
無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。
いますぐ登録
会員の方はこちら