2020.10.17

CARS

世界一醜いけれど、世界一愛おしいクルマ! デザイナー本人が語ったフィアット・ムルティプラ誕生の秘密とは

フィアットのデザイナーとして現行型の500やティーポを手掛け、現在はFCAヘリテージ部門の責任者を務めるジョリートさんは、自ら担当したムルティプラでクルマの新しい価値を知ったという。これまで出会ったクルマの中で、もっとも印象に残っている1台は何か? クルマが私たちの人生にもたらしてくれたものについて考える企画「わが人生のクルマのクルマ」。今回はあのニューヨーク近代美術館(MoMA)にも取り上げられたムルティプラをデザインしたロベルト・ジョリートさんが、その誕生にまつわる経緯のすべてを語ってくれた。

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誰も引き受け手がいない企画だった!?

自分がデザインした自動車のなかで、大ヒットとなったモデルではない。社内の期待を背負ってペンをふるったニューカーでもなければ、デザイン界で絶賛されたものでもない。メディアは物議を醸し出した。世論に至っては……、このカタチに引いてしまった人も多かった。このクルマは、デザイン自由度が高くて、表現対象として思い切り腕を奮うことのできるコンセプト・カーとして企画されたものでもなかった。同時進行しなければならない多くのプロジェクトのひとつ、どちらかと言えば埋もれた存在。



にもかかわらず、このクルマを作ることで僕の人生は大きく変わった。もっとも心に残る1台。自動車デザイナーとしてばかりではない。エンスージアストとして、親として、考えることが好きで新しいことに興味津々の人間として、人生のページをめくるような体験となった。どんなスゴい自動車をデザインしたのか? と思われるだろう。スーパーカーを想像された方がいたら相当がっくりくるはずだ。僕が話すのはフィアット・ムルティプラである。

プロジェクトのスタートは1994年。カテゴリーは「ミニバン」とされていたが、当時のフィアットでは「ピープル・ムーヴァー」という名前で呼ばれていた。なんとダイレクトな呼び方だと可笑しい。何枚かのスケッチを携えて同じくアイデアを提出した同僚と話し合いを進めた。

当時のフィアット・チェントロ・スティーレ(社内デザイン・センター)のボスはピーター・デーヴィス。パサディナのアートセンターを卒業したアメリカ人。スタッフはスペイン人、ドイツ人、日本人、韓国人、ギリシア人、アルメニア人、オーストリア人、フランス人と、イタリア人の影が薄くなるほど人種の坩堝だった。この多様性がよかったのだろう、議論は実にフランク、偏見もなければ格式にこだわることもなかった。それぞれが自分のものの見方をぶつけ合い、各々の情熱と自分の信じることを大切にした。

アイデア・スケッチには、製造コストに配慮したフェンダー、車幅を抑える形状を取り入れたドア・ミラーなど、機能性に関するアイデアが多数書き込まれている。

話し合いの段階では自分が担当するつもりはなかった。正直なところ想像だにしなかった。いつも通り、それぞれのスケッチをもとにディスカッションしたあとに同僚の誰かが受け持つのだろう、そのくらいの気持ちでいた。ピープル・ムーヴァーが僕の肩にのしかかって来たのは実に単純な理由、引き受け手がいなかったから。他に多くの重要なプロジェクトがあって、誰もがそちらをやりたがった。重要とは予算がふんだんに用意されたもの。ピープル・ムーヴァーはこの点でも貧しいプロジェクトだった。実現の可能性にも乏しい。フィアットは自社単独のミニバン製作に消極的で、ショー・カーとして発表することにすら躊躇いがあった。

当時は多くのメーカーがミニバン・プロジェクトを展開した。ポンティアック・トラン・スポーツ、日産プレーリー、ルノー・エスパスなどなど。フィアット・グループははでにプジョー/シトロエンとのコラボ、共通シャシーを使ってフィアット・ウリッセとランチア・ゼータを送り出していた。なぜに今更増やさねばならぬ。それでもトライすることになったのはこのカテゴリーのさらなる成長が期待されたからだろう。



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