2021.07.22

CARS

貴重なアバルトやアルファ・ロメオのレーシングカーに目覚めたオーナーの官能的なコレクション!

ガレージに並ぶ美しいイタリア製のレーシング・カーたちはどれもがすぐに官能的なエグゾースト・ノートを奏で、全力で走ることのできる、素晴らしいコンディションだった。


走る宝石

大きなシャッターが上がると、小さな“走る宝石たち”がこぼれんばかりにきらめいた。前列の2台もマニア垂涎のイタリアンだが、奥に潜んだ揃えがいっそう凄まじい。左から順にアバルトOT1300シリーズ2“ペリスコピオ”、アルファ・ロメオ・ジュリア1750GTVグループ2仕様、そしてAMS171SP。いずれも1960年代後半から70年代前半を代表するレーシング・カーたちだ。


富士や鈴鹿の別荘ならいざ知らず、ここは姫路の閑静な住宅街。まさかこんな猛者が眠っているとは通りすがっただけでは想像できない。


「OTを買った当初はナンバーを取ったんですけど、この辺りを2回走って2回とも通報されました。レーシング・カーが走っているって」


満面の笑みでそう語る赤鹿さんはとても穏やかな紳士で、こんな獰猛なマシンを相手にサーキットをガンガン攻めている人にはまるで見えない。


きっかけは自動車雑誌

筆者と同世代と聞いていた。てっきりスーパーカー・ブーマーだと思い、どんな経験を積めばこんなにもツウな品揃えになるのか興味津々も、話を聞いて得心した。


「小学2年の時にクルマ好きの叔父からオートスポーツ誌を山ほどもらいまして。隅から隅まで貪るように読んでるうち、カートに興味をもったんですよ」


12歳でレーシングカート・デビュー。今でこそ珍しい話じゃないが、カートといえば百貨店屋上のゴーカートしか思い浮かばない80年代前半のことだから先進的である。


周りには後に有名となったレーサーたちもいた。赤鹿さんも負けず速かった。「中学、高校とカートを続けていたんです。でも大学に入ってマハラジャの誘惑に負けた(笑)」。


全日本クラスで落ちこぼれた、と本人は謙遜して仰るが、カートの経験がひょんなところで実を結んだ。


「普通免許を取って最初のクルマがPFのジェミニ(初代の後輪駆動モデル)だったんですが、それが縁で神戸のジェミニ専門チューンショップでバイトすることになりまして。専用のパーツを試作しては六甲で夜な夜なテストする。そんな大学時代でした」


赤鹿さんが現在、最も長く、激しく攻めているサーキットでのパートナーが1971年型アルファ・ロメオ1750GTV改グループ2仕様だ。90年代にレース用パーツを供給していたショップがGTVベースのレースカーを作りかけたまま放ってあった所謂“プロジェクトもの”を譲り受け、70年代当時アルファ・ロメオの準ワークスチーム的な存在だったローマのスクアドラ・アンジェリーニ仕様にイチから作り上げた個体。JCCAレースFクラスに出場中。まだまだ熟成途中とは言うものの、筑波サーキットを1分8秒台で走る実力の持ち主。

赤鹿さんが輸入車、それもイタリア車に目覚めたのはこれまた神戸で有名なカフェだった。オーナーがアルファ・ロメオ・ジュリアGTVに乗っていて、語り合ううち自分もGTVを買っていた。


そこでイタリア車熱は一旦冷める。仕事が忙しくなってきたこともあって、アウディや初代セルシオなどオートマ・セダンを乗り継いだ。イタリア車に戻ったのは29歳の時。結婚を前にして、今のうちにしか買えないクルマをと思って手に入れたディーノ246GTだった。


「ところが、その辺りから仕事がさらに面白くなってきましてね。全力投球しなくちゃと思うようになって、ディーノもこのガレージに十数年置きっ放しになってしまいました」


ちなみにこの立派なガレージは結婚を機に家を新築することになり、建設会社を経営する赤鹿さんのお父上が自ら設計してくれたものだ。当時はディーノと普段乗りのクルマしかなかったわけだから、お父上だけには息子の未来がよく見えていたというわけか。


赤鹿さんを再びマニアの世界へと引き込んだ1967年式アバルトOT1300シリーズ2“ペリスコピオ”。シリーズ1がフィアット850のフロアと足まわりを使っていたのに対して、シリーズ2はシムカ1000用を使って大幅に性能アップを果たした。エンジンもシリーズ最高チューン。シリーズ1とは顔の表情なども異なる。最大の特徴はルーフの潜望鏡(ペリスコープ)のようなエア・インテークで、本来はシリーズ2専用だ。9000回転近くまで回る“ガラスのエンジン”もスペアを一機確保されていた。

仕事中心になってもクルマを忘れたわけではなかった。そして欠かさず買っていた雑誌で一台のクルマを知る。カー・マガジン誌の1999年1月号で、アバルトが特集されていた。赤鹿さんを虜にしたのが超レアなアバルトOT1300シリーズ2“ペリスコピオ”だった。


実物をイベントなどで追いかけているうちに、十数年が経った。仕事も軌道にのり、そろそろクルマを本当の趣味にしてもいいかなと思い始めた頃、恋焦がれたあのOT1300が関西のとあるショップで売りに出ていることを知る。赤鹿さんのクルマ人生が大転換した。今から8年前の話だ。


十数年乗らなかったディーノを手放し念願のOT1300を手に入れた赤鹿さん。買って6年間は眺めているだけで満足していたが、昨年、ついにサーキットへ持ち込んだ。


「このクルマを手に入れることがなかったら、今頃まだオートマで満足していたでしょうね」。


そこまで赤鹿さんを夢中にさせるOT1300とは一体どんなクルマなのだろう。


「フィアット850ベースのシリーズ1とはエンジンからシャシー、よく見るとスタイルまでまったく違うクルマです。ペリスコープも本来はシリーズ2のみの装備なんですよ。丈夫なシムカ1000用のフロアパンを使い、前後のサスペンションは専用設計、エンジンもビッグ・バルブ化されてよりハイチューンドになっています。6000回転くらいからトルクが乗り始めて、7000回転からさらにドーンと力が出る。その先はもうアッと言う間に9000回転近くまで吹け上がって。オーナーは必ずと言っていいほどオーバーレブさせて壊してしまうんで、ガラスのエンジンとも言われます。当時のアバルト・ワークス・ドライバーも回しすぎて壊すと罰金を取られたそうです。運動性能はとても高い。直線ではピタッと落ち着くのにコーナリングはシャープ。でもってリアが滑り出すと手に負えない。まだまだその性能を引き出せていません。人生の時間をかけて自分のモノにするクルマだと思っています」


三種三様のレーシング・カー

そんな難しいOTばかり相手にして走っていたら欲求不満になりかねない。赤鹿さんの趣味はさらにエスカレートして、今ではドンガラから希望の仕様に興したグループ2仕様のアルファ・ロメオ1750GTVで今年からJAF公認のヒストリック・カー・レースに参戦中だ。さらに世にも珍しいイタリアはAMS社製のレーシング・カーも手に入れて、ブレシア・コルセ仕様にレストアする。RRにFR、そしてミドシップと三種三様、実に羨ましいレーシング・カーの揃えが完成した。赤鹿さんのサーキット通いはいつしか家族総出のイベントとなっていた。


世にも珍しい1971年型AMS 171SP。AMS=アットレザットゥーレ・メカニケ・スペチアリはボローニャに存在したレーシング・カー・メーカーで現在は働くクルマの架装会社として存続。創始者は元ATSのレーシング・カー・デザイナー、タンクレディ・シモネッティ。伊国内選手権を主戦場とした2座のオープン・スポーツカーを得意とした。この個体は伊NOVA社チューンのフォード1000ccを積んだtipo171と呼ばれるモデルで全9台中の9号車。耐久レースで活躍したルイジ・モレスキがブレシア・コルセからエントリーした仕様へとレストアした。

1970年前後の小さなクルマが大好きな赤鹿さん。サーキット以外のイベントには前列の2台、フィアット・アバルト131ラリーとアルファ・ロメオ・ジュニア・ザガートが活躍する。そして、この日の取材にはレストア中で間に合わなかったが最近手に入れたクルマがある。それもまた1970年に誕生した画期的なミドシップ4シーター。ヒントはガレージ奥の壁に。さて、何でしょう。


1976年型のフィアット・アバルト131ラリー(写真右・左側)は赤鹿さんの好みにローダウンされている。2台目の131ラリーで2019年に購入した。1972年型のアルファ・ロメオ1300ジュニアZ(ザガート)にはもう6年ほど乗っている。いずれもツウ好みのイタリアン・クラシック・モデルである。横の壁に立てかけてあるカートは赤鹿さんが学生時代に使っていたもので、なぜか1台だけ残っていたらしい。全日本クラスで落ちこぼれた、と本人は謙遜して仰るのだが、当時取った杵柄がその後の“走りまくるカー・ライフ”を決定づけたと言って良さそうだ。

文=西川 淳 写真=阿部昌也


(ENGINE2021年2・3月合併号)

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