オーナーの山中さんと、ホンダS800(1966&1970)とディーノ246GT(1970)。
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「2台持つとクルマはもっと楽しい!」若かりし頃は、黎明期の日本のレースシーンに携わりその後はコッパ・ディ小海を立ち上げるなど、クルマ趣味を極めた山中信博さんが、70歳を過ぎて乗りたいと思ったクルマとは何か? 日本のモータースポーツの夜明けを知るエンスージアストにクルマを2台所有することの楽しさを聞いた。モータージャーナリストの藤原よしおがリポートする。運命を変えたS600との出会い山中さんは多芸の人だ。誰も知らない、見たこともないイタリアのレーシングカーを嬉々として乗り回していたかと思えば、20代の若者とストリートダンスに興じたり、はたまたライブハウスのステージでサックスを吹いていることもある。
ちなみに今から25年ほど前に初めてお会いした時は、日本で最も長い歴史を持つクラシックカー・ラリー・イベント“コッパ・ディ小海”の主催者としてだった。そうした溢れ出るバイタリティは、山中さんの足跡を知れば納得できる。京都に生まれ、バイク好き、クルマ好きとして育った山中さんだが、同志社中学1年の時に遊びに行った友達の家に置いてあったレース仕様のホンダS600が運命を変えた。その友達のお兄さんこそが、後に童夢を設立する林みのるさんだったのだ。「今思えば浮谷(東次郎)さんのカラスか、ヤブさん(矢吹圭造)のトージローIIの元だったのかもしれませんねぇ」その後は友達よりもお兄さんに付いて回ることが多くなり、ロングテール・マクランサ(林みのるデザインのエス・ベースのレーシングカー)のボディ製作を手伝ったのを皮切りに、レースの世界へ傾倒。大学時代にはトヨタS800とともに、鮒子田寛さんから譲り受けたワークス仕込みのレーシング・カローラを所有するなど、早々に“2台持ち”生活を始めていた。そして大学卒業後、山梨信輔さん率いる初代ノバ・エンジニアリングの設立に林さんとともに参加。しかし「翌日に林さんだけ京都に帰って置いていかれた」ため、御殿場のガレージにレースメカニックとして住み込むこととなる。「当時はオケラ(解良喜久雄さん)が富士グランチャンに出る鮒子田さんのシェブロン、僕らが風戸裕さんのマーチの担当でした。ファイバーはできたけど、他は見よう見まねでね。溶接はオケラに仕込まれて……」しかし1週間で8時間しか寝られないというハードワークが祟り体を壊した山中さんは、73年でレースの世界から足を洗い、クルマと縁のない生活に戻ることとなった。
それから十数年後。近所の写真館の主人が亡くなり、友人であった山中さんに愛車のポルシェ912を引き継いで欲しいという遺言があったことから、山中さんのクルマ趣味の第2章が始まることとなる。程なく、若い頃に憧れていたASA1000GTを購入。解良さんとともに85年に開催された日本初の本格的公道ラリー・イベント“六甲モンテミリア”に出場すると、ラリーの魅力にハマり、ジーロ・デ京都の運営に参画。そして91年に仲間4人でコッパ・ディ小海を立ち上げた。以降、様々なイベントに関わる傍らで、デトマソ・ヴァレルンガ、モレッティ750S、モラスッティ、スタンゲリーニ、ジャウル、バンディーニなど当時日本では知られていなかった“イタリアの虫”たちが、次から次へと山中さんのガレージの住人として入れ替わっていく。「30~40台くらい、自分で乗りたい、好きだと思ったイタリア系のレーシングカーだけを乗り継いできました」▶「愛車とガレージ」おすすめ記事をもっと見る
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