黄色いボルボ
高橋さんがクルマの免許を取ったのは慶応義塾大学に入ってからだという。
「野球部の寮で生活をしていたんですが、3年生になったらクルマに乗ってもいいというルールがありました。3年のときに黄色いボルボを手に入れました」
高橋さんは3年生のときに東京六大学野球で三冠王となった。東京六大学のスターは黄色いボルボに乗っていたというわけだ。
「当時、ボルボと言えばエステート、つまりステーションワゴンが主流だったんですが、ディーラーに行ったら“黄色い限定車が1台だけ残っています。セダンですけど”と言われたんです。これも何かの縁かなと思って決めました。1996年だったと思います」
1996年に販売されていた黄色いボルボの限定車ということは、ボルボ850T-5Rだ。直列5気筒ターボを搭載したボルボのなかでもスポーティなモデルで、空飛ぶレンガというニックネームを持っていた。
読売ジャイアンツに入団した高橋さんは、いきなり活躍する。
「入団1年目はクルマがダメなんですが、ゴールデンウィークを迎えたぐらいから、僕がどうしてもクルマで移動しないとダメな状況になったんです。球団は僕が学生時代から運転していたことを知っていたので、高橋ならいいだろうということになったようです。実家にあった黄色いボルボを再び引っ張り出しました」
セ・リーグ特別表彰を受賞するほどの活躍をした新人の高橋さんは、新しいクルマを買うことにした。

「先輩にいろいろ相談しました。やっぱりベンツだろう、しかもAMGがいい。そんなことを言われたような気がします」
高橋さんはメルセデス・ベンツE55 AMGを購入する。
「当時はやはりベンツが多かったと思います。ほかのチームは知りませんけど、ジャイアンツではひまがあると、次のクルマは何がいいかなあ? という話になるんです。毎年、誰かが買い換えるので、クルマの話題は本当に多かったです」
高橋さんもE55 AMGからS55 AMGへと乗り換えた。そこからはメルセデス・ベンツに乗り換えていくということが続いたという。
黒いマセラティ
高橋さんがメルセデス・ベンツではないクルマに乗り換えたのは、結婚がきっかけだった。
「妻もクルマに乗るので2台必要になりました。いままでは1台でしたからスポーツカーだと不便かなあと思ってセダンばかり乗り継いで来たんですが、2台あるなら1台はスポーツカーでもいいんじゃないかと思ったんです」
高橋さんは街ですれ違った1台のスポーツカーを思い出した。
「それがさっきお話ししたマセラティ・グランスポーツだったんです。なんだ、あれは? めちゃくちゃカッコイイ! と」

高橋さんが黒いマセラティ・グランスポーツを手に入れたのは2006年のことだった。
「チームの人が誰も持っていなかったというのも購入動機です。初めてのイタリア車であり、初めてのスポーツカーでした。走るのがすごく楽しくて、休みの日は日帰りドライブを楽しみました」
これまで乗って来たメルセデス・ベンツとは違った独特のクセのある乗り味がとても面白かったそうだ。
「着座位置が低いですし、地面を這うような感覚がありました。音も凄かった。ナイターから帰ってきたときは自宅の前でサイレント・モードにしたほどです」
ちなみに2006年は怪我に悩んだ高橋さんだったが、翌年は冒頭の通り大活躍した。マセラティが来たことが転機になったのかもしれない。
「調子が悪いときにクルマを買い換えるのは贅沢の極みみたいに聞こえるかもしれませんが、確かにそういうのはありますね。クルマは野球選手にとって頑張った証みたいなものかもしれません。活躍したらあのクルマに乗りたいなあというのは、みんな思っていました。いいクルマが欲しくなる環境だったことは間違いありません」
フェラーリF355に乗りたかったという高橋さんだが、子供が出来ると便利なSUVを乗り継ぐようになった。
高橋さんにとってクルマとは?
「うーん。やっぱり頑張った証ですかね。あとは自分ひとりになれる空間。そこがいいですね。球場の行き帰りはひとりなので、その時間で自分を切り替える。球場に行くときは気持ちを高め、試合で上手くいかなかったときの帰り道は、クルマのなかで気持ちを落ち着かせる。そういうスイッチの切り替え装置かなあ」
もう一度、スポーツカーに乗りたいという高橋さん。帰り際、撮影用のマセラティ・グラントゥーリズモに振り返り笑顔を見せた。
文=荒井寿彦 写真=筒井義昭 スタイリング=Kim-Chang ヘアメイク=田中徹哉
■高橋由伸(たかはし・よしのぶ)1975年千葉県生まれ。神奈川県の桐蔭学園高校野球部で1年生から右翼手のレギュラーとなり、1年生と2年生のときに夏の甲子園に出場した。慶応大学野球部では3年春に三冠王を獲得、4年では主将に就いた。東京六大学リーグ本塁打記録を更新、219塁打を達成するなど、数々の記録を残し卒業後は読売ジャイアンツに入団する。「21世紀のスター」と期待され、開幕スタメン・デビューを果たす。セ・リーグでは長嶋茂雄以来となる新人打率3割をマークし、新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞も受賞した。その後も巨人の中心バッターとして活躍、2004 年にはアテネオリンピックで銅メダルを獲得した。脅威の先頭打者として知られ、2007年にはNPBシーズン記録となる9本の初回先頭打者本塁打を記録した。2015年現役引退とともに読売ジャイアンツの第18代監督に就任する。2018年に監督を退任、21年間着続けたユニフォームを脱ぐ。現在は野球解説者、野球評論家として活躍、2024年には読売新聞スポーツアドバイザーに就任した。
(ENGINE2026年1月号)