70年以上のキャリアを誇り、今も世界のトップ・ピアニストとして君臨するマルタ・アルゲリッチ。ベスト盤とドビュッシーの新録音を発表した彼女の、誰にも真似のできない演奏の凄みに迫る。
いま、世界中に何人のピアニストが存在するのだろうか。そのなかでアルゲリッチは人気と実力の両面で最高峰の賛辞を寄せられ、日本の音楽誌の人気投票でも常にベストワンを維持している。
アルゲリッチのピアノを聴くとき、心がいいようのない幸福感に満たされるのは、いわゆる努力によって積み重ねられたという痕跡がまったく見られない自然体の演奏だからだろう。けっして崩したり余分な手を加えたりせず、瞬間のひらめきに満ち、すばらしくコントロールされた指から発散される音楽で、すみずみまで強烈な個性が息づいている。しかし、この個性は彼女の鋭い感性が作品から読み取ったものだから、だれもアルゲリッチのようには弾けない。アルゲリッチは人生すべてが音楽となって凝縮し、人を感動させることができる稀有な存在なのである。
彼女は取材やインタビューにはほとんど応じることがなく、演奏だけで自己を表現する。アルゲリッチは室内楽で多くの名手たちとの共演を楽しんでいるが、共演者に聞くと、素顔はとても繊細で傷つきやすく、常に本音を語るという。そして彼女と共演すると、みな自分の最高のものが引き出されるのだそうだ。そんなアルゲリッチは生き方も音楽も率直。そのストレートな生きざまが音楽に反映し、聴き手の心をわしづかみにするのである。

常に進化する演奏
近年、彼女は若手音楽家を支援したり発掘したりすることに喜びを見出し、国際コンクールの審査員なども積極的に引き受けている。毎年開催される「別府アルゲリッチ音楽祭」でも日本の若手演奏家と共演し、その可能性を引き出すことにひと役買っている。
アルゲリッチのピアノは長年聴き続けているが、成熟とか安定とか落ち着きということばとは縁遠い。常に進化し、前向きで、高みを目指してひたすら飛翔していく。リズムは鋭角的で勢いに満ち、打鍵は深く、音色は濃厚、速いパッセージは限りなく速く、ジャングルを駆け巡る雌豹のような怖さと威厳を持つ。そしてえもいわれぬ官能的な味わいが全編を覆う。
最近リリースされた2枚のCDはベスト盤と最新録音。ベスト盤はアルゲリッチのこれまでの歩みが刻印され、嵐のような情熱と濃厚な演奏が胸に突き刺さる。一方、新録音のドビュッシーは円熟した表現が際立つものの、昔から変わらぬ作品への真摯な姿勢と共演者との丁々発止の音の対話が特徴。アルゲリッチの魔力に脱帽だ。

文=伊熊よし子(音楽ジャーナリスト)
(ENGINE2021年8月号)
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