2021.08.22

CARS

あなたは「多摩川スピードウェイ」を知っていますか? 日本初の常設サーキットの昔と今

休日に子供たちがサッカーや野球の試合に興じる川崎市の多摩川河川敷。ここは1936年に開場した日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」の跡地である。当時のコースは跡形もないが、堤防に造られた観客席は当時のままの完全な状態で現存しており、約350mにわたって階段状の古いコンクリートが続いている。

当時は仮設コースが当たり前だった

日本では1922年から自動車レースが行われていた。しかし、当初は埋立地や飛行場などを借り、コースの境界線に目印を立てただけの仮設コースだった。土埃が濛々と立つような空き地を軽く均しただけの無舗装だったから、レースが進むほどにダートトライアル場のように路面が荒れ、最終的にはレースにならない状態だったという。そんなコースに解体屋で拾ったアメリカ車で製作したにわか作りのレーシング・カーを持ち込み、アメリカ式の左回りオーバルでレースを行う彼らにとってインディ500マイル・レースが開催されるインディアナポリスのような本格的なサーキットは憧れ以上の存在だった。太平洋の向こう側よりもさらに遥か彼方にある遠い夢に思いを馳せる、そんな時代だった。

多摩川スピードウェイのグランドスタンド跡。戦前のサーキットの観客席が当時のままの姿で残るのは世界的にも極めて稀少な例だ。(写真提供=多摩川スピードウェイの会)

1936年に多摩川河川敷に開設

しかし、諸般の条件が揃って、1936年に念願の常設コース、多摩川スピードウェイが開場する。東京横浜電鉄(現在の東急)が管理する東横線の線路近くの河川敷には、簡易舗装された1200mのオーバルコースとコンクリート製観客席が造成され、建設費の10万円(一説には15万円)は東急と一個人が出資したと伝えられる。阪急の沿線開発手法に倣い、東急は東横線沿いに百貨店や住宅地とあわせて田園コロシアムをすでに運営しており、多摩川スピードウェイも同列のスポーツ・エンタテインメント施設として運営されることになった。

多摩川スピードウェイの観客席から東横線の線路と丸子橋を望む。(写真提供=多摩川スピードウェイの会)

こけら落としにはホンダの創設者、本田宗一郎も出場

こけら落としとなったのは1936年6月の「第1回全日本自動車競走大會」。隣国との関係が悪化し、すでに国際社会から孤立していた日本は、自動車輸入を制限する一方で国産小型車の産業育成に乗り出していた。そこで、ダットサンやオオタなどが出場する国産小型車クラス(排気量750cc)には、レースを通じた性能向上や国産小型車のプロモーションのため、商工省(現在の経産省)が勝者に大臣杯を提供していた。またこのレースには、のちに本田技研工業を設立する本田宗一郎も自らフォードを改造したマシンで参戦していたが、予選レースでトップを走行していたものの接触事故を起こし九死に一生を得ている。他にも、戦後日本の自動車産業発展において主導的な役割を担った数多くの人物が多摩川でのレースに携わっていた。

1937年5月16日に多摩川スピードウェイ初のレースとして開催された「全日本自動車競走大會」。超満員の観客席を前に、国産小型車クラスの決勝「商工大臣カップレース」がスタートする。商工大臣カップレースは国産小型車クラスで、ダットサンとオオタの対決となった。写真のクルマはすべて、ダットサンのライバルだったオオタ。(写真提供=多摩川スピードウェイの会)

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