2023.06.30

CARS

イセッタを生んだ気骨あるイタリアの自動車メーカー、イソがなくなった理由

イソ・イセッタ(1954年)

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BMWがライセンス生産したイセッタで知られる、かつてのイタリアの自動車メーカー、イソ社。1939年の創業から74年の終焉まで、その全貌を伝える企画展がトリノの自動車博物館で開催された。

最初は冷蔵庫工場だった……


「Iso」の名は、第2次大戦前にレンツォ・リヴォルタ技師がジェノヴァで始めた冷蔵庫工場Isothermosに由来する。モータリゼーションの到来を予見した彼は、会社名はそのままに戦後、ミラノ郊外ブレッソで二輪車「イソモト」「イソスクーター」の生産を開始する。エンジンには、1つの燃焼室を2本の気筒で共有することで低燃費・高効率を達成するスプリット・シングル方式を採用した。

1954年には車体前部から乗降する画期的なマイクロカー「イセッタ」を発表。「二輪車と異なり、天候を気にせず2名が移動できる経済的なコミューター」が開発コンセプトだった。ただし、イタリアでの人気は限定的だった。翌55年に発売されたフィアット600が4人乗車可能で、戦後のベビーブーム社会に、より合致していたからだった。イソはイセッタ戦略の軸足を国外生産やライセンス供与に移行。皮肉にもBMWがライセンス生産したイセッタは“本家”をはるかに超える16万台のヒットとなった。



時代とシンクロできず


やがてイタリア経済が高度成長の香りを漂わせ始めると、イソはグラン・トゥリズモの市場を模索する。デザインにはベルトーネ(チーフデザイナーはジウジアーロ)、エンジニアリングにはジョット・ビッザリーニを指名した。エンジンは信頼性を重視してシボレー製V8を採用。そうして誕生した62年のGT、63年のグリフォは、流麗なスタイルだけでなく、ルーミーな室内、広い荷室など高い実用性も兼ね備えていた。



だが、イタリア全土を襲った69年の労働争議「熱い秋」、73年の石油危機がイソに致命的打撃を与えた。会社はリヴォルタ家の手を離れ、新所有者も為す術なきまま74年、その歴史に幕を閉じた。


今回トリノ自動車博物館には、イソの歴代車種が二輪・四輪合わせて12台集められた。改めて見ると、個々のアイディアは秀逸なものの、時代とシンクロナイズできなかったことがイソにとって最大の不幸だったと筆者は考える。

一方で、こんな逸話もある。フィアット500の機構を活用した、オフロード用試作車(1960-61年)の量産をイソはフィアットに提案したものの、先方からは採用の条件として自社の傘下に入ることを求めた。レンツォ・リヴォルタはその提案を拒否。結果、計画は撤回されたのである。最後まで独立精神を貫いた、気骨あるブランドだった。



文・写真=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA


(ENGINE2023年7月号)

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