豊田章男氏と並ぶ新社長の佐藤恒治氏(53)。レクサスも手掛けたエンジニアで、2021年1月に執行役員に就任。写真:つのだよしお アフロ
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4月で社長の座を降りる豊田章男氏。14年間、陣頭指揮を執り続けてきた豊田氏が、長年の交流があるジャーナリスト、山本シンヤ氏に語っていた胸の内とは?
なぜ頑張る必要があったのか?1月26日、トヨタは4月1日に豊田章男社長が会長に就任、佐藤恒治執行役員が社長に昇格する人事を発表。すでに様々な記事が公開されているが、ここでは長年豊田氏を取材してきた筆者だから解る裏側をお伝えしていきたい。豊田氏が社長に就任して以降、大胆な変革をトップダウンで行なってきた。口の悪い人は「まるで独裁政権のよう」、「会社を私物化している」などと語る人もいたが、思い違いも甚だしい。当時のトヨタは大企業病に侵されていた。責任を負うことを恐れ、誰も動かない企業になっていた。豊田氏は「このままではトヨタはダメになってしまう」と危惧、「自分が全て責任を取る」と行動し会社を変えた。なぜ、そこまで頑張る必要があったのか?
ひとつは創業以来のトヨタを担ってきた「歴代創業家の人々の苦労に報いたい……」という強い思いだ。これは創業家の末裔としての責任感だ。2つ目は利益の先にある「何か」を追い求めていること。取材をすればするほど感じたが、豊田氏の経営判断の大原則は「自分」ではなく「誰か」のために行なっている。これはトヨタの経営理念「幸せの量産」、そしてクルマ業界で働く550万人の雇用を守るための決意「ジャパンLOVE」にも繋がっている。そして3つ目はあまり知られていないが「悔しさ」である。豊田氏は「私の全ての原動力は『悔しさ』です。昔から『創業家生まれのボンボン』と色メガネで見られ、それが故に誰からも応援してもらえない悔しさ、何をやってもまともに見てくれない悔しさ、何をやっても斜に構えて言われる悔しさ……を嫌というほど味わってきた。その悔しさが私の全ての原動力になっている」と語っている。その結果、トヨタは大きく変わった。37万人以上が働くグローバル企業でありながら、個人商店の如く素早くフレキシブルな判断対応ができるようになったのだ。中には「14年の任期は長かったのでは?」と言う声も聞くが、マイナスだったトヨタをリセットし、経営を安定させるためにこれだけの時間が必要だった。逆に言えば今回の社長交代は、14年間で次世代に向けた土台が出来上がったことを意味する。社長交代発表時に豊田氏は「佐藤新社長には一人ではなく、チーム経営をしてほしいとお願いした」と語ったが、今思うと昨年4月に、副社長を復活させたのは、社長交代に向けた伏線だったのかもしれない。
豊田氏を救ったのは……豊田社長の14年は、様々な問題との闘いばかりだったような気がする。リーマンショックの後始末、米国の公聴会、東日本大震災、コロナ危機、ウクライナ侵攻によるロシアからの撤退、そして半導体危機など多くの困難があったが、自ら陣頭指揮を執り、乗り越えただけでなく、そのような危機的状況でもシッカリ収益を出せる体制を築き上げた。商品で言えば「もっといいクルマ」を開発の中心に捉え、モータースポーツを車両開発にも活用した。その結果は、クルマ好きの琴線にふれるようなモデルはもちろん、ロングセラーも大きく変わったことは皆さんもご存じだろう。豊田氏はトヨタを“クルマ屋”として正しい方向に立て直した。しかし様々な行動が一般的な企業の経営者とは違うため、否が応でも目立ち、その結果数多くの誹謗中傷を浴びてきた。そんな揚げ足取りに対して気丈にふるまってきたが、豊田氏も人間である。ただそんな時、豊田氏を救ったのはクルマだった。「ドライビングをしている時は、頭の中を無にできた。だからここまで頑張れたと思う」と筆者だけにその想いを語った。今後は会長として佐藤新社長をサポートする形となるが、マスタードライバー、そしてモリゾウは継続する。足りなかったドライビングの時間をより堪能してほしい。文=山本シンヤ 写真=トヨタ自動車(ENGINE2023年4月号)
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