2025.12.04

CARS

“スーパーカー”のはじまりからちょうど60年!【ランボルギーニ初のミドシップ】「ミウラ」の元になったプロトタイプ「TP400」とは

ちょうど60年前、すべてのスーパーカーの起源ランボルギーニ「TP400」が公開に!

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1965年11月のトリノ・ショーは、スーパー・スポーツカーの歴史を語る上で欠かせないイベントだ。この会場でランボルギーニが発表したプロトタイプの「TP400」は、現代に続くミドシップ・スーパーカーの始祖ともいうべき存在なのだから。

ミドシップ横置きV12の衝撃!


この展示された「TP400」は、鋼板をプレス成形し、軽め穴が多数穿たれたシャシーに、四輪とスペア・タイヤ、かろうじてコクピットと呼べる設えを備え、ドライバーズ・シートの背後には4リットルV12を横置きしていた。

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当時の基準からすればレーシング・カーの試作車と見えただろうそれは、翌年にロード・カーとして仕立てられ、世界初のスーパーカー「ミウラP400」として生を受けることになる。



この新たなランボルギーニのアーキテクチャー、最初のアイデアは1964年夏に持ち上がった。



発想したのは当時、本拠地サンタアガタに籍を置いていた3人の若者。すなわちジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニ、そしてボブ・ウォレス。



まだ20歳そこそこだったエンジニアとテスト・ドライバーは、レース参戦を夢見たが、創業者フェルッチオは首を縦に振らなかった。そこで、そのパフォーマンスとテクノロジー、そして情熱を込めたロードカーを生み出そうと画策した。

そのアイデアはプロジェクト「L105」へと発展し、革新的なグランツーリスモのボディを纏うことを想定した、軽量でコンパクトなシャシーとして具現化した。

最初は懐疑的だったフェルッチオも、ついには彼らに任せることを決断。「P400」と呼ばれたシャシーとエンジンは、市販化へと動き出す。



そして、前述のトリノ・ショーで、当時唯一の市販ラインナップだった「350GT」と、そのスパイダー版として試作された「350GTS」とともに公開。





サテン・ブラックのシャシーと4本の白いエグゾースト・パイプが印象的なそれは、モデナのマルケージ社が構造部分を製作。0.8mm厚の鋼板を折り曲げ、穴を開け、軽さと剛性のバランスをとった。



センター・タブは応力担体で、サスペンションの取り付け基部でもあったが、前後にはメカニカルなコンポーネンツやサスペンション、アクセサリーを支持するサブ・フレームを設置した。重量は120kg以下で、当時の技術では驚異的な数字と言える。

四輪独立のダブルウィッシュボーンをはじめ、ガーリング製ディスク・ブレーキやボラーニのワイヤー・ホイールといった装備はレースカー譲りで、この頃のロード・カーには見られなかった要素だ。



また、エンジンとギアボックスを一体化し、キャビンの背後に積むというのも、斬新な手法だった。このまったくの新構造となるパワートレインは、サイズを小さくまとめることに成功。



上部には12本の吸気ファンネルがそびえ立ち、ウェーバーのキャブレターへと空気を吸い込む。技術的にも視覚的にも、高性能を予感させるものに仕上がった。

そうなると、欠けている重要なピースはボディだ。当初「350GT」のボディを手掛けていたカロッツェリア・トゥーリングの、虎を意味する“ティグレ”と名付けたデザイン案が検討されたが、経営の傾いたトゥーリングにそのプロジェクトを継続する余力は残されていなかった。

もう1つの名門カロッツェリアであるピニンファリーナは、他社との契約を抱えており、ランボルギーニには手をつけられない。そんな中、トリノ・ショーのブースを訪れたのが、ヌッチオ・ベルトーネだった。



それは会期の終わりも近い頃、ヌッチオの姿を見つけたフェルッチオは冗談混じりに「おたくがウチに来た最後のコーチビルダーだよ」と声をかけたという。



ヌッチオは「TP400」を念入りに検分し、自分のアトリエなら「このみごとな足にピッタリの靴」を作ることができると、フェルッチオに返したことを、のちに回想している。

こんな気の利いたセリフが本当にやりとりされたかはともかく、ふたりが意気投合するのに時間は要らなかったことは確かだったようだ。

話はトントン拍子に進み、最初のスケッチをフェルッチオやダラーラ、スタンツァーニが目にしたのは、クリスマス休暇中のファクトリーだったとか。



そのデザインはじつに革新的で、即座にプロジェクトとして承認。



翌1966年3月のジュネーブ・ショーでは、早くも「ミウラ」のプロトタイプが披露されることとなった。



それから60年目となる来年は、クラシック・カー部門のポロ・ストリコが記念ツアー・イベントを開催するなど、ランボルギーニは通年で祝賀ムードとなりそうだ。

ちなみに「ミウラ」のデザイナーといえば、後に「カウンタック」を生み出し、現在のランボルギーニの礎を作ったマルチェロ・ガンディーニだ。しかし、ジョルジェット・ジウジアーロ説も実は存在する。



これは「ミウラ」の開発時期とジウジアーロのベルトーネ離脱時期が近く、その置き土産が素案になったのではないかという憶測によるところが大きいが、ジウジアーロ自身のそれを匂わせる発言もあって、いまだに語られている。

真相が明らかになる日は、はたして来るのだろうか。

文=関 耕一郎

(ENGINE Webオリジナル)

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