2021.06.11

CARS

シトロエンの一時代を築いたデザイナー、ロベール・オプロン逝く 元上司ベルトーニから引き継いだデザイン哲学とは

シトロエンSM(1970年)。折からの石油危機により生産台数は1万2920台に留まったが、同社の先進性を世界に知らしめた。

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1970年代のシトロエンで数々の傑作を手掛けたロベール・オプロンが89歳で亡くなった。元上司、ベルトーニから引き継いだ彼のデザイン哲学とは?

ロベール・オプロンは1932年、フランス北部アミアンに生まれた。美術学校で学んだ後、航空機製造会社を経てシムカに入社。シトロエンで働き始めたのは1962年のことである。上司は1955年にDSを手掛けたフラミニオ・ベルトーニ。だが2年後、彼の急逝に伴い突如後任としてデザイン部長に就任した。そしてベルトーニが残した後期型DSを67年に仕上げ、アミ6の大規模改良版であるアミ8を69年に世に送り出した。

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さらに自身のマスターピースである70年型のSM/GSと74年型のCXも発表。それらはいずれもカーデザイン界に大きな衝撃を与えた。ただし73年の石油危機でプジョー傘下に入ることが決まると、本人いわく「シトロエンの世紀は終わったため」ルノーに移籍。86 年まで責任者を務めた。その後フィアットでデザイン部門を主導し、91年からフリーとして活動していた。

ロベール・オプロン。2003年イタリア北部で企画された「オプロンのシトロエン」ミーティングで。余暇ではダブルベースの演奏を好んだ。

幸い筆者はオプロンとジュヌヴィエーヴ夫人からたびたび話を聞く機会に恵まれた。たとえばオプロンはシトロエンの面接時、携えた過去作品をベルトーニに眼の前で投げ捨てられている。にもかかわらず、オプロンのもとには採用通知が舞い込んだという。さらに前述のDS後期型デザインでは「いきなりベルトーニがハンマーで実車の前部を破壊し、造型用素材で瞬く間に新たな形を作った」とオプロンは回想した。そうした上司だったが、夫人は「夫と作風が明らかに異なっていたことが衝突を避けられた理由」と話している。

いっぽうオプロンに「自身の時代に刷新したかったものは?」と問うと、彼は「ベルトーニのバロック性だ」と答えた。一例としてアミ6の“いびつ”な造型を修正した結果がアミ8だったと説明した。

シトロエンCX(1974年)。約20年続いたDSの後継車をデザインするという重責を担いながら、オプロンは新時代の解釈を提示した。

また「ベルトーニから継承したかったものは」との問いに彼は「フィロソフィだ」と即答した。そのフィロソフィとは、独自性と先進性に溢れたデザインを指す。オプロンは、ベルトーニが魚の形態の研究を通じて到達した有機的フォルムを、より洗練させることに成功。その後、プジョーとの部品共用化が進められても、彼が創り上げたシトロエン的デザイン・ランゲージの灯はともり続けた。

そのオプロンは3月29日、パリ郊外アントニーで89年の生涯を閉じた。不幸にも新型コロナで命を落としたため、葬儀は簡略に済まされた。だが生涯未来的フォルムを模索していた彼のことである。天国では早くもレベル5自動運転車のあるべき姿をスケッチしているに違いない。

ルノー・フエゴ(1980年)。欧州で2年連続クーペ販売台数1位を記録した。

独立後の代表作リジェBe Up(2000年)。高齢者の足だったマイクロカーを小粋な街乗り用に再定義した。製品化にはイタルデザインが参画。

文=大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

(ENGINE2021年7月号)

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