2025.03.30

CARS

ジブリパークに展示されたイラスト物語「駆けろ2馬力風より疾く」の初出は『NAVI』だった 36年前の担当者が語る2CVの思い出

「駆けろ2馬力風より疾く」が掲載された『NAVI』1989年12月号(二玄社)。

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宮崎駿監督が愛した(現在進行形?)シトロエンが愛知県に誕生した「ジブリパーク」に展示されている。宮崎アニメ好きなら、すぐ”クラリスのクルマ!”と思いつく、そう、あのクルマ。しかも、宮崎監督じしんのクルマという。

フランスのシトロエンが、1948年に発表した2CVは、戦後まだ経済的に疲弊しきっていたフランスにあって、それでもなんとか個人の移動の手段を、と考えて開発されたクルマだ。



会場に行ったら、どうして、宮崎監督はこのクルマを愛しているのか、じっくりと眺めてほしい。1990年まで生産されていた超がつくほど長寿のモデルだが、基本設計は、宮崎監督が最初に購入した50年代のモデルと、おおきく変わっていない。

当時「クルマ未満」などとされながら、いまでもファンには強烈に愛されているこのクルマ。合理的でいて独創的な設計のかたまりなのだ。室内空間をなるべく広くするため円弧を描いたルーフライン、騒音を逃がすと同時に日光を浴びられるゴム弾きのルーフ、大きな荷物を搭載するときは外せてしまう座席、さらに強度を上げるため波状にプレスしたボディパネル、といったぐあい。



1920年代から30年代にかけての航空機や、クルマを愛する宮崎監督の琴線に触れる部分が多かったとは、「ジブリパーク」内の会場に展示されたイラスト物語「駆けろ2馬力風より疾(はや)く」(初出・二玄社「NAVI」誌・1989年12月号)でご本人が触れている。これも大労作。ぜひ時間をかけて”読んで”理解してほしい。



じつは、その原稿を担当させていただいたのは、私である。最初、小さなインタビューで宮崎監督にお会いしたとき、2CVの話題になり、それだったらぜひ物語を、という話になったのだった。

当初、お会いしたときは、当時の「スタジオジブリ」で、アニメーターのみなさんが、ものすごいいきおいで「天空の城ラピュタ」(だったような記憶)に取り組んでいた。そのあと、すこしたってから、同じスタジオで宮崎監督に会ったときは、スタジオには誰もいなかった。納品が終わったのだ。



宮崎監督が最初に2CVを購入したのは(おそらく)1966年。「駆けろ2馬力」にあるように、息子(おそらく宮崎吾朗監督)の誕生のタイミングが購入のきっかけだったようだ。

どうせ買うなら、フランスのルイ・マル監督作品「恋人たち Les Amants」(1958年公開)に登場するあの「ブリキみたいなの」(「駆けろ2馬力」より)というシトロエン2CVを選んだのだった。宮崎監督じしん、じぶんの事務所に「二馬力」とつけたほどで、いらい、2CVを何度も買い替えた(ようだ)。



2CVという変わった車名は、フランスの課税馬力(当時は排気量によって課税額を決める)に由来していて、1CVはだいたい200cc。宮崎監督の2CVは375ccだったという。「カリオストロの城」でクラリス・ド・カリオストロが追っ手から逃げるために駆る2CV(シトロエンのエンブレムは省略されている)は、このタイプAというモデルだろう。

かつて宮崎監督が「ルパン三世は、シリーズを追うごとに乗るクルマがとてつもないものになっていったけれど、ルパン三世は貧しいものに心を寄せている、貧乏人の小せがれ。なので、つねにフィアットのヌオーバ500に乗っていなくてはならなかったんです」と語ってくれたことがある。

フランスでは自動車未満などとも揶揄された2CVも、自国の農民などが使いたおせるぐらいの機能性でもって、戦争で疲弊した自国のインフラストラクチャーを立て直す企図で開発されたともいわれるモデル。当時の映画などフランス文化の匂いとともに、開発思想と、合理的な設計とが、乗りものを愛する宮崎監督を大きく惹いたのだ。

1941年生まれの宮崎監督は、運転免許を返上してしまったそうだ。でももしいまも運転するならどんなクルマに乗りたいと思っているか。機会があったら、ぜひうかがいたいものだ。個人的には、いまのシトロエン「アミ」(日本未導入)なんてどうかなと思っている。

文=小川フミオ



(ENGINE WEBオリジナル)

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