ラリー好きでランチア・デルタやY、シトロエン・サクソに乗っていた若林寛也さん。ところが14年前、7人乗りの珍しい欧州の商用車に乗り換えてしまう。180度違う方向性のクルマに乗り換えた理由はなんと“かるた”だった。アルトから乗り換えたのはランチア・デルタ琵琶湖畔のドッグランのあるカフェの駐車場には、晴天の週末ということもあって、次々と愛犬を乗せたクルマたちが滑り込んできた。けれど、日本ではまず見かけることのない、真っ赤なフィアット・ドブロでやって来た若林寛也さんが載せていたのは、愛らしいペットではなく、何枚もの大きな畳だった。
同好の士のお子さんがたまたま持っていた百人一首と一冊の漫画『ちはやふる』が、彼のターニングポイントになった。クルマは遠くまで走って行ったり、速く走って楽しむものという、免許を取って20年近く積み重ねてきた固定観念は、たまたま競技かるたの世界に触れ、あっさり覆ってしまったのである。幼稚園の頃には通りがかるクルマの名前をすらすら言えるようになり、父親の日産ブルーバード(510)の後席で運転の楽しさを知り、小学生の時にスーパーカー・ブームに触れた若林さん。そんな彼が免許を取って早々にクルマを手に入れたのはごく自然なことだった。アルバイトで最初に買ったのは中古のブルーバード(910)。そしてその次に新車で買った3代目スズキ・アルト・ツインカムをきっかけに、小さく軽く、キビキビ走るクルマに夢中になる。すぐ中古の初代アルト・ワークスに乗り換え、片道50kmの通勤路を連日連夜走り続けた。それだけでは飽き足らず、交通量の少ない峠道を求め、1カ月半毎に1回オイル交換をするほどのペースで走って腕を磨いた。凍結路も積雪もなんのその。そしてダートトライアルのチームと知り合い、河川敷を走ったり、ラリーの映像を見るようになって、WRCの世界を知る。アルト・ワークスからラリーの最高峰で勝ち続けていたランチア・デルタ・インテグラーレ16Vに乗り換えたのは24歳の時だった。1992年開幕前のテスト・カーを模してマルティニ・カラーでホワイトの車体を飾り、マフラーを代えたりしながら7年乗った。渋滞の酷道でパーコレーションで止まってしまった時のことも「あの暑いサファリでもデルタは勝ったのに! と思いましたよ」と笑いながら語る。
とはいえアルト・ワークスのようなペースで走っていると、流石にデルタは音を上げた。7年間の修理代でフェラーリが買える。これはヤバい、と若林さんは乗り換えを決意。次のターゲットになったのは同じランチアの初代Y(イプシロン)だ。「最初にスクープ写真を見た時は、ランチアがこんな格好のクルマを出すの? って思いました。後からデザイナーのエンリコ・フミアさんから直接話を聞く機会があったんですが、わざと興味を惹くというか、心に引っかかるデザインにしたそうです。同じ時期に失敗のできないプントがあったこともあって、Yはかなり自由にできたそうで」見事に若林さんもフミアの作戦に引っかかり、新車で購入。Y乗り同士の結束は強く、イベントに通い、来日したフミア氏を自身のYで送迎したりもした。その結果、積算計の進み具合は、再び加速を開始した。一方、ラリー熱はというと、対象が競技から撤退したランチアからシトロエンへ。サンレモ・ラリーを見に行って、セバスチャン・ローブのデビューを目の当たりにし、彼の駆るサクソが心に焼きついた。帰国後に中古でサクソVTSを入手し、欧州車2台持ちが復活する。これでYの走るペースも少しは落ち着くかと思いきや……。「それが付き合う人も増えて、むしろ距離が増したかも知れない(笑)」新車から19万kmの時点で100万円掛けて直して乗り続けていたYは37万kmに、サクソは8万kmで買って、16万kmに達していた。▶「愛車とガレージ」おすすめ記事をもっと見る
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