2023.12.28

CARS

シトロエン、すべてのはじまりの地へ ヤフオク7万円のエグザンティア・オーナー、エンジン編集部ウエダが123年前の出来事を探りにポーランドへ!【シトロエン・エグザンティア(1996年型)長期リポート#28(番外篇6)】

DS 7クロスバックの後ろに見える3本のエントツが、この地にあった圧延工場の名残。右奥の湖対岸に見えるのが、123年前にダブル・ヘリカルの歯車を持つ水車があったとされる堰だ。

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ヤフー・オークションで手に入れた7万円のシトロエン・エグザンティアを、10カ月と200万円かけて修復したエンジン編集部ウエダの自腹散財リポート。大規模な修理の直後にも関わらず右往左往する本篇からまたまた離れ、2023年春に訪れたポーランドからのリポートをお届けする。向かうのはシトロエンの起源、いわば聖地ともいえる、創業者アンドレ・シトロエンの人生のきっかけとなった場所だ。

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市長とヒストリアンのお出迎え

123年前の1900年、シトロエンの創業者、アンドレ・シトロエンが義兄のブロニスワフ・ゴールドフェダーと向かったのはポーランドのどこだったのか。彼はどのようにしてダブル・シェブロンのルーツとなるくさび形の歯車と巡り会ったのか。
 


僕らを乗せたDS 7クロスバックは、制限速度が140km/hの高速道路A2をひたすら飛ばし、ゴウォフノ(Glowno)市庁舎に向かっていた。ゴウォフノ市は首都ワルシャワから西へ約100km、ウッジ(Lodz)というポーランド第三の都市の、東側に位置している小さな街だ。
 
実はこのウッジという土地の名自体は、かなり以前から特定されていた。例えば日本語の手に入りやすい書籍であれば、1972年に発行された「二玄社 CAR GRAPHIC LIBRAY 世界の自動車8 シトローエン 大川 悠 編著」では、すでにオリエント急行でアンドレがロッツ(原文ママ)にやって来たことや、母方の親類から招かれたことがすでに記されている。


 
これが2004年に出た「英ヘインズ社 CITROEN DARING TO BE DIFFERENT ジョン・レイノルズ著(日本語訳版 二玄社 CG BOOKS CITROEN シトロエン 革新への挑戦)」になると、ウージ(原文ママ)郊外の鋳物工場、とさらに具体的な場所になる。

さらに2013年発行の「グランプリ出版 シトロエンの一世紀 革新性の追求 武田 隆 著」では、それが1900年のことであり、姉ジャンヌのこと、義兄ゴールドフェダーのことも登場する。
 
ではウッジ郊外の工場とは、いったいどこだったのか。



それを丹念に調べ上げ、工場がゴウォフノにあることを突き止めたのが、今回の旅に同行してくれたシトロエン史研究家、リサルト・オルシェフスキ(Ryszard Olszewski)さんだ。そしてもう1人、リサルトさんともにこの謎と長年付き合ってきたジャーナリストがいる。ロッジ地方出身のヤツェク・ペルジンスキー(Jacek Perzynski)さんだ。彼は「WHERE DID YOU COME FROM SUPERMAN?」というポーランドとスーパーマンの関わりを綴った本も書いている。
 
ヤツェクさんとはゴウォフノ市庁舎で合流し、この日のガイドをしてもらうことになっていたようだ。でもそこでは、僕をもうひとりの人物が待っていた。それがなんとゴウォフノの市長、グジェゴシュ・ヤネチェク(Grzegorz Janeczek)さんである。
 
いささか緊張しながら市庁舎内へと進むと、綺麗な応接室へと誘われた。しばらくすると青いスーツを着た、恰幅のいい紳士が笑顔で現れた。


 
挨拶をし、少々緊張しながら市長にここへ来たいきさつを説明しはじめると、同席していたカメラマンがいつの間にか僕らを撮りはじめるではないか。取材をするのは慣れているけれど、取材されるのには慣れていない。結局カメラマンは僕らがグウォフノを離れるまでずっと密着。後日、ゴウォフノ市のオフィシャル・サイトには、取材の模様がしっかり掲載されてしまった。この日のことは、どうやら彼の地で小さなニュースになったようである。

もともとは鍛冶場

市庁舎からすぐ横のムロジチュカ湖に注ぐムロガ川を南へさかのぼっていくと、もう1つ、小さな湖がある。現代のGoogle Mapではフータ・ヨゼホフ(Huta Jozefow)、つまりヨゼホフ製鉄所という名になっているこの湖のほとりが、シトロエンのすべてのはじまりの場所だった。Hutaという名はここにもある、と手に持った古い地図を僕に見せながら、ヤツェクさんはいう。



リサルトさんとのヤツェクさんの調査によって、ヨゼホフ製鉄所のアーカイブから、1870年に銅の圧延工場が竣工したことが分かった。さらに時代を追っていくと、1886年発行の地理辞典にも、もともとこの地にあった鉄や銅の鍛冶場に端を発する工場が、1899年に圧延工場に引き継がれたとも記されていた。特徴的な3本のエントツのある、建設中だったり竣工当時と思われる工場の外観写真も見つかった。

付近には金属加工の大きな工場はなかったようだから、1900年、今から123年前にアンドレ・シトロエンと義兄のブロニスワフ・ゴールドフェダーが訪れたウッジ郊外の工場とは、このゴウォフノの圧延工場ということになる。

当時、工場の動力は川の流れを利用する水車によってすべてまかなわれていた。つまり水力を得るための堰があり、そこで水車として歯車は回っていた。そしてその歯車こそが、くさび形のヘリカル・ギア、つまりアンドレ・シトロエンが後に自分の名のクルマのエンブレムとした、ダブル・シェブロンの元だったのではないか。

ヤツェクさんによれば、おそらく当時の水車は木製であったという。そして一般的な日本の水車のように歯の部分が水平でなく、特徴的なくさび形となったのは、より回転が速くなり、効率がよかったからではないかと教えてくれた。

そして、シトロエン史をまとめた資料によく出てくる、あの人の何倍もの大きさのダブル・ヘリカル・ギアほどではないけれどといいつつ、この付近で撮られたという古いモノクロの写真も見せてくれた。そこには、確かにくさび形の歯車が写っている。



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