2021.04.03

LIFESTYLE

【アニメ化50周年】『ルパン三世』がなぜフィアット500に乗っているのか知っていますか? 1stシリーズの作画監督、故大塚康生さんの思い出

原作:モンキー・パンチ(C)TMS

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大塚康生さんとの出会いはプラモデルだった

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僕がフィアット500と大塚さんの存在を認識したのは、アニメの世界が最初ではなかった。 1984年、毎日のように模型店に通い、戦車や飛行機のプラモデルのことしか頭の中になかった中学1年の僕は、創刊されたばかりの1冊の模型雑誌に出会う。その名はモデルグラフィックス(大日本絵画 刊)。それまでの模型誌とは違う作品、写真のクオリティ、グラフィカルなレイアウト、豪華な執筆陣の原稿の面白さは衝撃的で、いつしか「模型を作りたい」という気持ちが「こんな雑誌を作りたい」に変わった転機となった1冊である。

その中で大塚さんは創刊号から『大塚康生のおもちゃ箱』という連載をされていた。その内容は大塚さんのライフワークでもあるミリタリー・ヴィークルの話(改めて読み返すと、これも貴重なものだ)がメインなのだが、個人的にものすごく印象的だったのが1985年1月号に掲載された連載第3回の『フィアット500余聞』だ。

1945年にオランダで武装解除されたドイツのヘルマン・ゲーリング師団の多数の車両の真ん中にポツンと小さなフィアット500トポリーノが写るメインカットから始まる記事の中で数多くのイラストと軽妙な文章で綴られていているのは、2種類あるフィアット500の歴史、新車で買って2台も乗り継いだチンクェチェントのこと、アニメーター仲間の宮崎駿さんのシトロエン2CV、小田部羊一さんのVWビートルとのエピソード、ボディに様々なマーキングを施して九州1周をした想い出、理想の1台というチンクェチェント・ベースのオフローダー、フェルベス・レンジャーのことなどだった。それはスーパーカー・ブーム以来、自動車への関心が薄れていた僕にはとても衝撃的で、これを機にちょっと旧いクルマ=ヒストリックカーへの興味が燃え上がり、あっさりとプラモデル作りを卒業することになった。決して大袈裟な話ではなく、もしこの記事に出会わなかったら、僕は今の仕事をしていなかったと思う。


若かりし日の大塚康生さん。大塚さんが乗った500は日本輸入第一号車だったという。ご遺族提供、撮影者不明


だから大学を出てカー・マガジン(ネコ・パブリッシング刊)編集部に入り、半年ほど経ってフィアット500特集を組むことに決まった時、「何か1つネタを」と編集長に託されて是が非でもやりたいと思ったのが、大塚さんに自身のチンクェチェントのことを語っていただく企画だった。


企画が通るや否や、電話帳で思いつく関係先を調べ上げて聞きまくり、なんとか大塚さんの連絡先を教えてもらったのは、今にして思えば若さのなせる技だが、恐る恐る電話をしてみると、突然の申し出にもかかわらず、快く大塚さんは取材を引き受けてくれた。

そこで厚かましさのついでに、スタジオでチンクェチェントとの撮影をお願いしたいこと、そして「モデルグラフィックスのようなイラストを書き下ろしていただけないか?」ともお願いしてみた。

すると大塚さんは、昔と同じような絵を書いても面白くないので、今の自分の想いを絵にすること、そしてルパンを描く場合は版権の問題があるので、日本テレビの担当部署に許可を申請する必要があることなどまでも丁寧に説明したうえで、快諾してくれたのだった。

数週間の後、届いた原画を手にした時の感動と緊張は今でもはっきりと覚えている。ルパンと次元の乗ったチンクェチェントが五右衛門に真っ二つにされたり、銭形のブルーバードに追いかけられる姿は、1stシリーズのアニメそのもの。そのほかフェルベス・レンジャーや、大塚さんのかつての愛車など、モデルグラフィックのモノクロ写真でみたものが、フルカラーで生き生きと描かれていたのである!

またスタジオ撮影では、こちらで用意したチンクェチェントとニコパチで撮るのではなく、敢えてリヤをジャッキアップして、仰向けの状態でクリーパーに載って作業をしているポーズをお願いするなど、随分無理を言ったりもした。それでも大塚さんは「普通に撮るより面白い!」とノリノリで協力してくださった。


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