2021.11.20

CARS

日本のスーパーカー界の生き証人が語るスーパー人生!


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それはともかくフランスからの帰国後、青野さんがまず手に入れたのが、当時スーパーカー界では事実上の最速マシンと謳われた(スーパーカー・ブーマーなら漫画を読んで知っているはず!)、シルバーのマセラティ・ボーラだった。そこからスピードを追い求めるミスター・アオノの超絶カー・ライフが本格化する。

ビリー・ケーニッヒ率いるチューニング・ブランドのケーニッヒがBBのコンプリート・カーを仕上げたと知るや、青野氏はケーニッヒに直接パーツを発注。コンプリート・カーとまったく同じ仕様に仕立て、そのパフォーマンスを楽しんでいる。

ランボルギーニ・ミウラは、銀、黒、赤、青と4台も乗り継いだ。イオタ風に改造した個体を駆ってカウルを吹っ飛ばしてしまったこともあった。4台目のミウラは友人で今は広島で有名なローカル・タレントの西田篤史さんに譲り、自身は最高速315kmを標榜した、かのウルフ・カウンタック(赤)を手に入れている。もっとも、このカウンタックはエンジンがノーマルだったらしく、あるとき一緒にドライブしていた西田さんの駆る元愛車のミウラにぶち抜かれてしまった。

「腹立つことに、にた~っと笑いながら抜かれてしまった」(青野)

「ウィングが立っていたから負けたと言い訳しましたよねぇ」(西田)

同時に峠も攻めていた。こちらの流れは必然的にアルピーヌが中心で、自分のもの以外にも沢山のA110をフランスから輸入し、岐阜の業者へと卸している。アバルトも十数台乗り継いだという。

ともあれ、がむしゃらに時速300km以上を目指して踏み続けてきたのが彼の人生だ。クルマの出自は問わない。けれども決して背伸びはしない。最新のスーパースポーツが時速400kmオーバー確実と聞いても「何億もするなんて、容易に買える金額じゃないもの」とまるで眼中にない。ミスター・アオノはスピードのリアリストなのだった。

だから現実的に極めていく方を選んできた。国産車で初めて時速300kmの大台を記録したチューニングカー、RE雨宮のRX-7も躊躇うことなく求めたし、第1回の日本GPで滝レーシングからエントリーしたローラT70も手に入れた。ニトロ付きのデトマソ・パンテーラも試したし、ル・マンを走ったポルシェ935K3やジャガーXJ220LMにも乗った。その代わり遅いクルマには容赦なかった。フェラーリ・デイトナは2週間、トヨタ2000GTに至っては、4日でお払い箱にした。

奈良のナカムラエンジニアリングがノーマルのフェラーリ550マラネロをベースに、ホンモノのGTカー用エアロ・パーツを使って仕立てた個体(当初は展示用で中身はノーマルだった)を、さらにレーシングカー並みに青野氏が手を入れ、チューニングをし直した。

「とにかくね、ボクが乗りたいって思うクルマって当然のように壊れたのよ、もういやになるくらいに。東京へ買いに行くでしょう? 乗って帰らないと気が済まないタチだから、そのまま仮ナンバーを付けて東名を走っちゃうのよ。一度ね、店の人も付いてくるっていうから運転させてみたら、ずーっと2000回転あたりで走ってるわけ。調子いいでしょう? とかなんとか言いながら。運転代われ! ってボクが乗るでしょ。すぐ全開にするじゃない? するとね、やっぱり壊れちゃうんだな。ホント、いい加減な整備ばかりでさ」



携帯電話のない時代、高速道路上でのエンコは一大事件だった。ひとたび停まってしまうと、電話探しから始めなきゃならない。近くに非常電話が見当たらず、仕方なく茨の土手を下ってぼろぼろになりながら民家に駆け込んだこともあった。冬にはいつしか新聞紙とガムテープが車載必需品になっていた。救援が来るまでの“暖房装置”である。

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