2020.05.03

CARS

マレーシアのとあるガレージの片隅で埃をかぶっていたボロボロのレーシングカー それはかつて日本人ドライバーが乗ってル・マンで活躍したとんでもないヒストリーを持つクルマだった!

RA20型トヨタ・セリカ2000とPA10型日産スタンザ

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高校生の時にフォルクスワーゲン・ビートルの設計思想に共鳴した国江さんは、なんと17歳の時に実車を購入。その後、免許を取ってジムカーナやドラッグ・レースに目覚めると、パーツを買うために19歳の時にアメリカへ1人で旅立った。

「言葉も何もわからないから、電話帳でワーゲンとか、ドラッグ・レースって単語を探したり、街でビートルに乗ってる女の子に声をかけて、知っているショップまで案内してもらったんです。この時に買ったスーパーフロー・ヘッドが人生の転機でしたね。それを自分のビートルに付けたのが僕のレースの原点です」

実はこの行動力こそが、国江さんのクルマ趣味の重要なキーといえる。

その後、ポルシェに熱を上げるようになり、1990年代には911のレースカーでJCCAなどのヒストリックカー・レースで常にトップ争いを展開する存在となった。

「元々ル・マンに出たいという夢があって、FIA公認レースに出たいけど、ペイ・ドライバーは条件が悪く、レースをするなら自分でクルマを買って出るしかないという結論になったんです。そこで持っていたヒストリック・カーを全部売り、911 GT3 Rとカップカーを買って、友達7人を誘って全員でGTアジアに出場することにしました」

日本チームとして初めてGTアジアに全戦出場、さらにマカオでのGTワールドカップにも出場を果たした911 GT3 R。『栄光のル・マン』に憧れ、ガルフ・カラーのポルシェでレースをしたいという"男の夢"を叶えた思い出のマシンでもある。

映画『栄光のル・マン』に憧れていた国江さんはガルフ石油のスポンサードも獲得し、2015年のGTアジア・シリーズに日本のチームとして初めてフルエントリーする。そして見事にGTMクラスのチャンピオンを獲得。それがポルシェ本社に認められ、2016年からのスーパーGT参戦の道が開けることとなった。

「スーパーGTの活動に区切りを打ったのは、2018年にガルフとTAGホイヤーがスポンサーについたことで『栄光のル・マン』を再現するという自分なりの目標が達成できたからです。費用的にアマチュアが参戦するのは大変でしたが、この活動のお陰で本社から935/19のオファーが来たわけですから、結果的に良かったと思っています」

その後、再びヒストリックの世界へと舞い戻った国江さんは、ひょんなことから運命の1台に出会う。それが現在ル・マン・クラシックのグループCレースなどでドライブしているトムス童夢85C-Lだ。

「ある日、友人が旅行先のマレーシアで修理工場に変なクルマがあったと写真を見せてくれたんです。顔先がちょっと見えただけなのですが、間違いなく85Cでした。えっ、嘘だろ?って、もう大騒ぎですよ(笑)」

そこからの国江さんの行動は素早かった。当時マレーシアではストリートビューが解禁されていなかったため、友人の“隣にガソリン・スタンドがあるトヨタの販売店”という記憶を元に、電話帳でマレーシア中のディーラーを洗い出して“隣にガソリン・スタンドはありますか?”と電話で聞いて回り、ついにその店を見つけるのだ。交渉の結果、日本に戻って来た85C-Lは、一度水没したらしくボロボロの状態だったが、苦労の末1985年ル・マン出場時の姿にレストアされた。

「驚いたのはマレーシアからのコンテナを開けたら、積もり積もったホコリを払いもせずに、そのまま入れられていたことでした。“あー、興味がなければこういう扱いをされてしまうんだ”と実感しました。これが海外に行った日本のクルマを戻そうと思うようになったきっかけですね」

マレーシアで放置されているところをサルベージされ、見事に蘇ったトムス童夢85C-L。写真は2018年のル・マン・クラシックを走った時のもの。もちろん今年も出場を予定しており、取材時はメンテナンスのために残念ながら不在だった。(写真:藤原功三)

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